「敵」 (筒井康隆)




主人公は大学を退官した一人暮らしの男。彼は老醜をさらけ出すのを潔しとせず、蓄えが尽きたら自ら命を絶とうと決意している。この小説の前半部分には、老境をいかに生くべきか、自分なりの考えに従って生活を律っしながら生きる主人公の生活ぶりが細部にわたって事細かにリアリスティックに描かれる。老人の生活・心境を極めてリアリスティックに描いたいわば老人小説とでも言うべきものになっている。ちなみにこの小説の帯にはどうやら夏目漱石でも意識しているらし い白髪に髭を蓄えた筒井の写真が載っている。もちろんこれは「変装」だが、これは読者が主人公と作者自身を思わず重ね合わせあたかも実話のように読んでしまうことを狙った巧みなトリックかもしれない。
 ところが後半部分になると、主人公が参加しているインターネット上のメーリングリストを通して正体不明の「敵」が北から攻めてくるという情報が流される。このあたりからこの小説はにわかにSF的・幻想的になってくるのだが、これをリアリ スティックに読めば主人公がボケ症状に陥ったと解釈することが出来る。この小説、一貫して主人公の視点から語られているので、いわば「老人ボケ」を内側から描いていると言うことが出来る。老人ボケを内側から描いた作品はこれまでな く、恐らくこの小説が最初のものであり、筒井の面目躍如と言ったところだ。 これだけでもこの小説結構面白いのだが、この小説の仕組みは実はもっと複雑なようだ。後半部分で主人公は老人ボ ケになる訳だが、そこから前半部分を振り返ると実は前半部分でも老人ボケが始まっていると言うことが俄に分かる仕組みになっているのだ。前半部でも相談できる友人、教え子で現在に至るまで何かと面倒を見てくれる男、これも教え子で 主人公に思慕を寄せているらしく描かれる女性が登場する。しかし、後半部分から振り返ると、どうも不自然な点が見受けられる。実際主人公も何でこんなに親身になって面倒を見てくれるのだろうかとか、うら若い美しい女性がこんな老人 に思慕を寄せることがあり得るのだろうかとか繰り返し不審に思っている。後半から振り返ると、実はこれも老人ボケの主人公の幻想であり、実際のところ主人公は友人も無く誰にも相手にされない孤独な人物なのではないかと思われてく る。ここでこの小説は俄に筒井一流のブラックユーモア小説の観を呈してくる。どうやら筒井まだまだ老いぼれる気配は無いようだ。