閉ざされざる円環 ー 'The Dead' の結末の解釈を巡って
高橋 渡 [p.33] Dubliners の最後の短篇 The Dead に関しては、相矛盾するものも含め様々な解釈がなされてきた。特に、結末の雪の場面は、その解釈を巡り意見の別れる所である。私自身この短篇に関し『The Dead 試論 ー 死者達の正体を求めて』(1)という論文を執筆し自分なりの解釈を示したこともある。然し、その際私はこの短篇、特に結末部分に曖昧な点を感じながら、論旨の整合性を重視し、敢えてそれを無視した。しかも、私は従来の批評の中に、この曖昧性が作品のどのような構造から生ずるのか、作者のどのような意図に基づくのか、或いは、Dubliners 全体の解釈に如何なる影響を与えるのか、といった私の疑問に対して、充分に納得の行く論理を見い出し得ないでいる。本論はこれらの問題に対する私自身の解答への模索である。 まず従来の批評を3つのカテゴリーに分類し簡単に紹介しておく。第1のカテゴリーは Richard Ellmann が James Joyce(2)で示した解釈に代表される。即ち、Grace 迄の14篇の短篇に見られるジョイスのアイルランドに対する厳しい批判に、The Dead で修正が 加えられたとする解釈である。この解釈は現在に至る迄強い影響力を持ち続けている。第2のカテゴリーは、この作品をここまで展開されてきた "paralysis"というテーマの完結と見る批評である。第3のカテゴリーは、上述の2つのカテゴリーの相矛盾する解釈を同時に成立させるこの作品の曖昧性を、ジョイスの意図的な戦略と見て、その意味と構造を解明しようと試みる批評である。 このカテゴリーはさらに2つのサブ・カテゴリーに分けられる。ひとつは Florence L.Walzl が Gabriel and Michael:The Conclusion of "The Dead"(3)で示した解釈である。この論文で示される解釈は基本的にはエルマンの解釈を受け入れ、この作品にジョイスのアイルランドに対する態度の変更を認めている。然し、第1のカテゴリーに属すこの解釈は、この作品を単独に読んだ場合のみに成立し、Dubliners 全体のコンテクストの中で読む場合には逆に第2のカテゴリーの解釈が成り立つとしている。そして筆者は、テクストのこの両義性を、ジョイスの [p.34] 意図的なストラテジーと位置付ける。即ち、この作品を書く1907年の時点において、ジョイスのアイルランドに対する態度には変更があり、彼はそれをこの作品に反映させなければならなかった。然し、それによって、Dubliners 全体のコンテクストには亀裂が生じ、作品全体の整合性が破壊されることになる。そこでジョイスは、この問題の解決策として、テクストに両義性を持たせ、単独に読んだ場合には第1のカテゴリーの解釈が、そして Dubliners 全体のコンテクストの中で読んだ場合には第2のカテゴリーの解釈が成立する様なテクストを構築したのだと結論づける。この論文は The Dead の両義性を正面から捉え、第1及び第2のカテゴリーに属す従来の解釈を紹介 した上で、主にメタファーを手掛りにしながらテクストを詳細に分析している。その意味でこの両義性の問題を考える上では無視することの出来ない論文であろう。本論に於いても、この論文は一つの叩き台として屡々言及されることになるだろう。 第2のサブ・カテゴリーは Phillip F.Herring の Joyce's Uncertainty Principle(4)や Jean-Michel Rabate の "Silence in Dubliners"(5) 等に代表される解釈である。これらの論文は、いずれも現代批評的な観点から Dubliners を所謂 "scriptible" なテクストと位置付ける。Dubliners のテクストには「空白」があり、その「空白」がテクストの一義的解釈を不可能にし、解釈の不確定性を生み出すと解釈するのである。Herring の論文では "gnomon"(平行四辺形の一角を含みその相似形を取り去った残りの形)、Rabate では“silence" という概念がそれぞれこの「空白」を表すキーワードとして用いられて いる。これらの批評は作品の解釈そのものよりも、むしろ解釈の不確定性をもたらすテクストの構造を分析する、言わば、メタ批評的色彩の濃い批評であると言うことが出来るだろう。 本論では、上述した様な従来の解釈の問題点を検証しながら、作品自体の解釈の可能性を探って行く。そしてその過程で生ずる解釈の不確定性に関して、それが如何なるテクストの構造から発生し、作者の如何なる戦略に依るものなのかを考察して行きたい。 Dubliners に就いて論ずる際には屡々引用され、第2のカテゴリーの重要な根拠となる Grant Richards 宛の書簡を引用する。ここでジョイスは Dubliners のモチ−フに就いて次の様に述べている。
ここで示される Dubliners のテ−マと構造は、Oswald Spengler が 『西洋の没落』で示した歴史観を想起させる。Spengler は「どの文化も個人の年齢段階を経過する。どの文化 も、子供、青年、壮年、老年の時代を持っている。」(7)と、歴史のサイクルを人生のサイクルに対応させるが、この構造は "public life" と「老年」との違いはあるものの、 基本的には Dubliners の構造と一致する。また Spengler は「文化」に対し「文明」を 「成ることに続く成ったもの」と定義し、更にそれを「生に続く死」と表現するが(8)、「生」の本質とはまさに「なること」、つまり現在の一瞬を自ら選択し、あるものに成ろうとする行為にあると言えるのかもしれない。そして個人にしろ社会にしろ、成ろうとすることを停止すれば、変化を生むエネルギ−は失われ、停滞し、やがて「死」が訪れることになるだろう。"paralysis" とはまさにこうした状況を示すメタファーとなっている。例えば、冒頭の短篇 The Sisters には、多くの批評家が指摘するように、宗教的主題 を暗示する象徴が構造的になされている。例えば、"paralysis" に罹り精神に異常をきたして、神の意志を代行する本来の役割を果たせなくなった Father Flynn の姿には、麻痺した宗教のイメ−ジを見ることが出来る。更に、彼が精神に異常をきたした原因が空の「聖杯」を割ったことにあることが明らかにされるが、それは「空の聖杯」という、言わば、形式的、儀式的なものに固執する宗教の形骸化をコノートする。タイトルにもなっている "The Sisters"は、宗教的コンテクストに置く時、 'nun' という意味に読むことが出来る。Nannie という名前には、この 'nun' という語の響きが隠されている。そして彼女等が仕える Father Flynn とは父なる神を象徴し、彼を失った彼女等の家は神なき教会を象徴することになる。ここにも宗教の形骸化という主題は繰り返される。 この宗教の形骸化という主題は、先に論じた Spengler の認識と重なり合う。神の象徴としての Father Flynn は "paralysis" に罹り言葉を失い、やがて死んでしまう。ここでは、神の言葉であるロゴス、そして神そのものが失われていることが暗示される。「ロゴス」「神」とはまさにキリスト教の理念であり、その理念が失われているのだ。そこには恐らく、制度、或いは、形式としての宗教が残る。Spengler の言葉を使えば、宗教は 「成ったもの」と化している。或いは、宗教の「死」と言うことも出来るだろう。 ここでは、本論の主題から逸脱することになるので、詳しく論ずることは出来ないが、Dubliners には、成ろうとする意欲を失い、形骸化した宗教、因習、固定 [p.36] 観念、社会通念や既成の状況といった「成ったもの」に支配される人々の姿が描かれている。The Dead に現れる「死者」とは、これら「成ったもの」を象徴していると言えるのではないか。そして、人生のサイクルに対応させれば、The Dead は“paralysis" の帰結としての「死」にあたると言える。 以上のような解釈は端的に第2のカテゴリーに属すことになり、この解釈がそのまま成立するとすれば問題は残らない。然し、The Dead にはこのような解釈に揺らぎを与える 要素がある。次に、その要素の所在を検証して行きたい。 ジョイスは Dubliners にアイルランドの "moral history" に見られる "paralysis" を描くと述べたが、The Sisters 冒頭のパラグラフを締め括る「僕」の言葉 "I longed tobe nearer to it [paralysis] and look upon its deadly work." とは、作家自身の 意図を表明したものに他ならない。アイルランドが陥っている状況に対するジョイスのこうした認識・批判は、The Sisters における象徴や他の短篇に見られる状況のリアリスティックな描写、或いは、例えば Eveline の最後の場面で惨めな現実から脱出出来ない彼女を "passive"、"helpless" と表現するナラティブによって暗示されることになる。 The Dead にもこうした状況批判を読み取ることが出来る。上述したように、「死者」 が「成ったもの」を象徴するのだとすれば、この短篇には「成ったもの」に支配される人々の姿が批判的に描写されているということになる。そして The Dead には、このような解釈の裏付けとなる描写が随所に見られる。例えば、Gabriel がパ−ティ−終了後にする "never-to-be-forgotten Johnny" の挿話もこうした状況を暗示している。銅像の周りをぐるぐる回り前進しようとしない馬の姿は、「成ること」を停止し「成ったもの」に囚われ続ける人々の姿を写しだすメタファ−と解釈出来る。ナラティブのレベルでもこうした認識を見ることが出来る。
ここでは、モーカン姉妹の "annual dance" が毎年同じ様に繰り返されているということが、"always"、"Never once"、"For years and years"、"as long as anyone could remember" といった表現によって執拗に強調されている。そしてそこには、この固定化した "style" を衝き崩そうとする要素を極力排除しようとする力が働く。例えば、モーカン姉妹が Freddy Malins のことを気に掛けるのもその一つの現れだ。[p.37] 或いは、晩餐の場 面に何気なく差し挟まれている次の歌にも、このような排他性が暗示されている。
Unless he tells a lie,/ Unless he tells a lie. (p.205) ここでは、"Which nobody can deny. / ... Unless he tells a lie." と、異なる意見、異質な者は排斥されてしまうのである。 さて、ここでこの短篇の結末の雪の場面に就いて考えてみよう。この雪の場面はメタフォリカルな描写になっているが、メタファーには本来的に曖昧性が伴う。メタファーの意味は記号表現が直接指示する記号内容の背後に隠されているからだ。メタファーの表現と意味との間には読者の想像力が埋めなければならない亀裂が存在するのである。メタファーが明確な意味を指示するためには適切な文脈が必要になる。例えば、先に挙げた銅像の周りを回り続ける馬の挿話がメタファーとして機能し得るのは、その前に、毎年繰り返されるダンス・パーティー、死者や過去に囚われ続ける人々の姿が批判的に描かれているからだ。然しこの雪の場面には、この場面を導く文脈を混乱させ、一義的なメタファーの解釈を阻む要素があるように思われる。そしてその要素とは、ナラティブの構造と、主人公Gabriel の位置付けとに緊密に関わっている。 まずナラティブに就いて考察してみる。Bruce Avery は、ホテルに帰り Gretta から Michael Furey との思い出を打明けられる会話の途中で、Gabriel の言葉から突然アイロニカルなトーンが抜け落ち、それと同時に、ナレイターの語りからもアイロニカルなトーンが消えると指摘する(9)。Gretta に Michael との関係を問い詰める Gabriel の言葉には、"he asked ironically"(p.219)と "ironically" という副詞が繰り返し用いられている。然し Gabriel は、
という自己認識に至り、彼の口調からはアイロニカルなトーンが消える。
それと同時にナラティブからもアイロニカルなトーンは消える。結末の雪の場面にはアイロニカルなトーンは見られない。先に引用したモーカン家の "annual dance" の描写では "always"、"Never once"といった表現の執拗な反復によって描写全体がアイロニカルなトーンを帯び、そこから我々はここに描かれる状況に対する批判を読み取ることが出来た。然し最後の雪の場面のナラティブはGabrielの口調と同様 "indifferent" なものになっている。そこに、この場面が肯定的に描かれているのか、それとも否定的に描かれているのかが曖昧になる一つの要因がある。 次に Gabriel の位置付けに就いて考えてみる。この作品では、他の短篇とは異なり、 登場人物である Gabriel に状況批判を行なわせている。例えば、パーティー締め括るスピーチで、彼は死者や過去に囚われ続ける人達に次の様に語る。
The Dead に描かれているのは、まさに、死者や過去に囚われ続けるが故に、「生きている人たちの間で立派に仕事を続けて行く気力」を失った人々である。換言すれば、「成ること」を停止し「成ったもの」に支配される人々なのである。この Gabriel の批判はジ ョイスが Dubliners 全体を通して行なってきた状況批判に他ならない。Miss Ivors との会話にも同じことが言える。アイルランドの民族復興運動に身を投じている彼女は、アラン島を中心とするアイルランド西部に残る古きアイルランドの生活様式や、今や殆どの地域で死語となっているアイルランド語を復活させようとする民族運動の原理を盲目的に信じている。だが、これらもまた「過去」に属するものだ。そして Gabriel と同世代の彼女も「過去」に囚われているのである。Gabriel は彼女に就いて、"Had she really any life of her own behind all her propagandism ?"(p.192) と考える。彼は、彼女が民族主義という固定観念に支配され、自ら判断・選択し、成ろうとすることを停止しているのではないかと考えているのだ。"life of her own" とは「生」即ち成ろうとする意欲の謂に他ならない。[p.39] このように、ここではジョイスの状況批判は Gabriel という一登場人物を通して間接 的に表明されている。仮に、先に見たナレイターによる状況批判や Gabriel の状況批判 が最後の雪の場面へ収束して行くのだとすれば、この作品には解釈上の疑問は残らない。然し、実際には、この作品に見られる批判の回路はそう単純ではない。登場人物のレベルで見ると、Gabriel は Miss Ivors を批判したが、同時に彼女から批判を受けている。彼は彼女から休暇中にアラン島に行かないかと誘われるが、「大陸」に旅行する予定だと言って断る。そして「大陸」に出掛ける理由を "it's partly to keep in touch with the languages and partly for achange."(p.189) と述べる。ここでは Gabriel の「大陸」の事物に対する信仰が批判されている。また、この作品における Gabrielの役割にも二面性がある。Gabriel はモーカン家のパーティーに関して、批判者であると同時にそれを成功させる上で欠かせない役割を負わされているのである。更に、彼はスピーチの中で、
と述べているが、これは Miss Ivors に批判された直後彼女を揶揄する目的で思いついた言葉であり、彼はモーカン姉妹を "only two ignorant old women"(p.192) と認識しながら、同時に Miss Ivors に対してはモーカン姉妹を擁護する立場を取っている。またナラティブのレベルで見ると、上述の如く、ナレイターは死者や過去に囚われる人々を批判すると同時に、同じく彼らを批判する Gabriel をも批判している。例えば、"goloshes" に纏わる描写には Miss Ivors との会話で批判された Gabriel の「大陸かぶれ」がアイロニカルに批判されている。このように、この作品内には、Gabriel の置かれている立場の二面性、彼が批判者であると同時に他の登場人物に批判されていること、そして死者や過去に囚われる人々を批判すると同時に批判者たる Gabriel をも批判するナレイター、こうした複雑な批判の回路が内包されているのである。そして、このような構造によって、Gabriel の状況批判、ナレイターの状況批判は、言わば、相対化されてしまう。そしてそこに第1のカテゴリーの解釈を容す余地が生じてくる。 ここで第1のカテゴリーの論拠を簡単に検証してみよう。まず Ellmann の解釈で重要 な根拠となっているのは1906年9月25日付けの Stanislaus 宛の書簡である。[p.40]
ここでは確かにアイルランドの「美点」に対する再評価が見られるが、それをそのまま The Dead の解釈へと結びつけることは出来ない。先に挙げた Gabrielの "hospitality"に対する言及は、文脈上は Miss Ivors を揶揄する目的で思いつかれたもので、ジョイス自身の評価と取ることは出来ないだろう。また、少なくとも、それによってスピーチ後半の Gabriel の批判が無効になってしまうことはない。次に、第1のカテゴリーのこの作品全体の読みは、基本的には次のようなものだ。
この解釈では Gabriel を批判する回路を強調し、彼の態度を彼の状況批判をも含めて、"egotism" と捉える。そして、その "egotism" が彼から真実を蔽い隠しているのだが、Gretta に Michael とのことを告白された後、先に引用した自己批判とも言うべき自己認識に到達し、その“egotism" から開放されることによって「真実」を見ると解釈する。 その真実とは、例えば、"he now identifies himself with the social group thathe despised all evening long ..."(12)といったものだ。然しこのような解釈には幾つか問題点がある。一つは、この解釈が Gabriel に対する批判のみを取り上げ、彼が行なう批判を無視している点だ。彼の状況批判は、先に見たように、ジョイスが Dubliners 全体を通して行なってきたものであり、ナレイターの批判でもあった。それを完全に無視することは出来ない。もう一つの問題点は、一登場人物の自己認識をこの作品が最終的に示す認識と捉えている点だ。しかもその認識というのは、"a ludicrous figure, acting as a pennyboy for his aunts, a nervous well-meaning sentimentalist, orating to vulgarians and idealising his own clownish lusts" といった、自らが果たしてきた、言わば、"clownish" な役割に関する認識であり、必ずしも自らの"egotism" に対する自己批判と捉えることは出来ない。そしてこの時点では、ナレイターは "indifferent" になっており、この自己認識に対する明確な意味を示してはくれないのである。 第1のカテゴリーの解釈では、この自己認識に導く Gretta と Michael との関係は、[p.41] 例えば、次のように理想化されている。
このカテゴリーに属す解釈の殆どはこの様に Gretta と Michael との関係を理想化し、 それをアイルランド西部に残る古きアイルランド的なものと結び付ける。然しここには飛躍があると言わざるを得ない。死の危険を冒して Gretta に会いに来た Michael の愛に 対する価値判断はテクストの中には示されていない。先にメタファーとは本来的に曖昧なものでありメタファーの解釈には読者の想像力が介入すると述べたが、例えば、Michael を "Christ" 或いは "a symbol of sacrificial love" と取る解釈には読者の側の価値観がかなり直接に反映している。このような解釈の起源は、テクストの内部にではなく、むしろ読者の価値観にあると言わざるを得ないだろう。この作品が書かれた1907年には既に Ulysses の構想が着手されている。そして Ulysses には Bloom という 'anti-hero'が描かれる。Declan Kiberd がペンギンの新版 Ulysses (1992)の序文で述べる様に、ジョイスは「愛国心」や「犠牲」といった "those big words which make us so unhappy"(14) を恐れ、それ故に Bloom という 'anti-hero' を作り上げることによって The Odyssey に内在する 'heroic' な "epic codes" を解体しようとしたのではなかったか。こうした観点から見ても、Michael を 'heroic'なものと取り、それを理想化する解釈には疑問を感 じざるを得ない。またこの解釈では、先にも取り上げた Gabriel と Miss Ivors との会話にしても、アイルランドの復興運動に身を投じる Miss Ivors の立場のみを正当化し、Gabriel の批判は無視されてしまうことになる。 こうして見てくると、第1のカテゴリーの解釈が、複雑な批判の回路から、Gabriel の批判を無視し、彼に対する批判のみを取り上げ、それを作品全体の解釈に結びつけるというかなり恣意的な操作から成り立っていることが解る。しかも、そこではその解釈に沿って、先に述べたような恣意的な "symbol" の解釈が行なわれているのである。[p.42]
Gabriel は The Lass of Aughrim を聞く Gretta の姿から何等かの象徴を読み取ろうと する。然し、後に彼女から、その曲を聞きながらそれをよく唄っていた Michael を思い出していたと告白される時に、彼の読みは決定的に誤読であったことが明らかにされる。この Gabriel の読みは、この作品の "symbol" を読むこと自体のアレゴリーになっている。つまり、この作品に於いては、"symbol" の解釈は常に誤読の危険性を孕んでいるということだ。いやむしろ、或る特定の "symbol" の解釈をすること、或いは、テクストを或る特定の意味に還元すること自体が、既に誤読なのだという警告を発しているのではないか。この作品には複雑な批判の回路が仕組まれ、その内どれか一つの認識をこの作品の最終的認識として提示することは注意深く差し控えられているのだから。我々は最後の雪の場面を解釈する場合も、ナレイター同様 "indifferent" になる必要があるようだ。 最後の場面では、"snow was general all over Ireland."(p.223) と雪がアイルランド全土を埋め尽くすイメージが提示されている。そして雪は死者と生者 ("all the living and the dead")、批判する者と批判される者全てを白一色に埋め尽くす。ここではそれら全てが均質化されてしまう。ここに示されるイメージは、これ迄この作品中に示されてきた様々な認識の意味の階層構造を破壊し、それらの意味を等価なものにしてしまう作用を持つように思われる。ジョイスがここ迄の短篇で行なってきたアイルランドに対する状況批判は、この作品では一登場人物である Gabriel に託される。だがここで Gabriel は批判者であると同時に他者から批判を受ける批判の対象ともなっている。またナレイターは Gabriel と同様に状況批判を行なうが、同時に Gabriel 自身をも批判し、最後にはその アイロニックなトーンを失い、"indifferent" になってしまう。こうして Gabriel の状況批判は相対化され、最後の場面では、他の認識と等価なものにされてしまうのである。それではこの作品で示される、ジョイスのこうしたストラテジーは如何なる意味を持つのか。最後にこの問題に就いて考えておかなければならない。 冒頭の短篇 The Sisters の初出は The Irish Homestead,13 August 1904 紙上である が、The Dead を除く全ての短篇が執筆された後、1906年に大幅な改稿が施され、[p.43] それが 現行の版になっている。初出の版と改稿後の版を比較すると、後者には、テクストに「空白」を作り、それによって作品に曖昧性を齎らそうとする意図が明らかに見て取れる。例えば、Herring がテクストの「空白」を表すキーワードとして用いた "gnomon" という語も改稿後の版に初めて現われる。また Rabate が指摘する "silence" を生み出す要因となる "unfinished sentence" が多用されるのも改稿後の版に於いてである。改稿後の版において結末が "when they saw that, that made them think that there was something gone wrong with him ...."(p.18) と、完結しない文章で終るのも、テクストに空白を齎らそうとする意図を端的に示していると言えるだろう。 こう考えてくると、The Sisters の改稿が行なわれた1906年迄に、ジョイスのテクスト観に重大な変化があったと推測出来る。先に分析したように、Dubliners で批判されたのは「成ること」を停止し「成ったもの」に支配される人々の姿であった。そしてこの状況は成ろうとする力を失い、完全に固定化しているが故に「死」というアレゴリーを生み出すことになる。然し、状況をそのような一つの固定した批判・解釈へと還元すること自体「死」のアレゴリーを喚起するのではないか。そこにあるのは「成ったもの」と化したテクストである。第一のカテゴリーの解釈の様に、The Dead に於いてジョイスは自らの状況批判を修正し、アイルランド文化の陥っている状況を肯定したのではなく、その批判がテクスト自体に撥ね返ってきた時に、自らの認識を相対化し、Dubliners を「開かれた作品」にしなければならなかったのではなかったか。 The Sisters と The Dead の間には、弟を失った老姉妹を巡って展開するという構造上の共通点が見られる。先に見たように、Dubliners に収められた短篇は人生のサイクルに沿って並べられているが、冒頭の作品と最後の作品の場面設定に於ける構造上の共通性は人生のサイクルという円環が両端を繋ぎ合わされることによって閉じることを暗示する。然し、ジョイスは作品を一つの意味の円環に閉ざそうとはしなかった。両端の作品に曖昧性を齎らし「開かれた作品」にすることによって、円環の繋ぎ目に空白を作り出したのである。そして、それが Ulysses という様々な解釈を容す作品を生み出す場となったことは言う迄もない。 註 テクストは Dubliners, A Viking Compass Book (New York: The Viking Press, 1973)を用い、本文からの引用は括弧内に頁数で示す。 (1) PHOENIX 第23号、1984年3月発行、pp.21-34. (2) Richard Ellmann, James Joyce. (London, New York: Oxford Univ. Press, 1977) (3) Florence L. Walzl, Gabriel and Michael: The Conclusion of The Dead", JJQ, Vol.4, 1966/1967. pp.17-31 (4) Phillip F. Herring, Joyce's Uncertainty Principle. (Princeton, New Jersy: Princeton University Press, 1987) (5) Jean-Michel Rabate,“Silence in Dubliners", James Joyce: New Perspective, ed. Colin MacCabe. (Sussex: The Harvester Press, 1982) (6) Selected Letters of James Joyce, ed. Richard Ellmann.(New York: The Viking Press, 1975) p.83 (7) Oswald Spengler, 西洋の没落 、縮訳版。(五月書房、1976)pp.76-7 (8) ibid., p36 (9) Bruce Avery, Distant Music:Sound and the Dialogics of Satire in“The Dead", JJQ, Vol.28,No.2, 1991. pp.473-483 (10) Selected Letters of James Joyce. p.110 (11) Gabriel and Michael: The Conclusion of“The Dead".p.21 (12) ibid., p.25 (13) Ibid., p.25 (14) James Joyce, Ulysses, A Critical and Synoptic Edition, ed. Hans Walter Gabler. (New York, London: Garland Publishing, 1984) Vol.1, p.61 SYNOPSIS: Unclosed Cycle: The Conclusion of The Dead Wataru Takahashi The Dead, the last story of Dubliners, has been interpreted variously, and critics have not agreed on the interpretation of this story, especially of its conclusion. The purpose of this study is to suggest that the ambiguity of this conclusion arises from the textual strategy of the author and to analyze the textual structure which gives rise to the ambiguity. In Dubliners, Joyce describes "paralysis" in "the moral history" of Ireland and presents it "under four of its aspects: childhood, adolescence, maturity and public life. "This motif of Dubliners reminds me of the historical view of Oswald Spengler. He says in The Decline of the West,“Every Culture passesthrough the age-phases of the individual man. Each has its childhood, youth, manhood and old age. "And he defines "civilization" in contrast to "culture" as "the thing-become succeeding the thing-becoming, death following life."Dubliners describes those who stop "becoming" and stick to "the thing-become" such as convention, a fixed idea or a shell of Catholicism. Joyce critisizes such conditions. And "the dead" symbolize "the thing-become." In the stories except The Dead, we can find Joyce's criticism through the narrator and the realistic description of the conditions. But, in The Dead, it is Gabriel, one of the characters of this story, who critisizes those who stick to "the dead." At the same time, however, he is critisized by the other characters he critisizes. And the narrator critisizes both those people and Gabriel. This complicated structure of criticism gives rise to the ambiguity of the conclusion of The Dead. In Dubliners, Joyce critisized those who stopped "becoming" and stuck to "the thing-become." And those conditions aroused the allegory of "death." But He must have recognized that to give a fixed interpretation to some conditions was also associated with the allegory of "death." And by giving the ambiguity to the last story, he tried to make Dubliners 'a open work.' |