隠喩 としての「エントロピー」:閉鎖系から開放系へ ー Thomas Pynchon の Entropy を解読する ー 高橋 渡 [p.57]
Entropy は 1960年に Kenyon Review (Spring, 1960) に掲載されたピンチョンの初期の短編であり、後に、初期の短編を集めた短編集 Slow Learner (1985)1) に収められることになる。Tony Tanner は City of Words 2) の中で Entropy に触れると同時に、「エントロピー」という言葉が頻繁に使用されるのは、それ自体注目すべきアメリカ的な想像力の傾向を示す一つの現象であると述べ、現代という時代を表象する隠喩として「エントロピー」という概念が如何に有効に機能しているかを論じている。とりわけタナーが取り上げて以降、この作品は、言わば、ピンチョンの作品全体の「序文」として重要な位置付けを与えられることになる。この作品の登場人物であるカリストー(Callisto)が「エントロピー」を “an adequate metaphor to apply to certain phenomena in his own world.”3) と考えるように、確かに「エントロピー」という概念は現代世界を表象する有効な隠喩として機能すると同時に、ピンチョンの作品を解釈する上でのキーワードとなるように思われる。本論ではテクストを詳細に分析しながら「エントロピー」という隠喩の意味を検証すると同時に、言わば、ピンチョンの小説の出発点としてこの作品が持つ意味を考察する。 この作品には明確な構図が与えられている。舞台となるのはワシントンD.C.の或アパートメントハウスの3階と4階で、日付は1957年の2月。3階では、ミートボール・マリガン(Meatball Mulligan)のアパートの契約切れパーティーが行われている。一方4階にはカリストーが住んでおり、部屋全体を温室にし、外部との接触を極力避けて自足的な生態系を作りだそうとしている。この小説では3階と4階で起こっていることが交互に記述されるが、このような構成には幾つかの意味があるように思われる。まず第一に、この作品では音楽が重要なモチーフとなっているが、3階の記述と4階の記述が交互に現れる構成は、音楽で言う「対位法」になっていると言うことが出来る。次に、テクストにフォークナーの Sanctuary への言及があるが 4)、この構成は、同様にフォークナーの作品である The Wild Palms の構成から採られていると考えられる。最後に、Judith Chambers も指摘するように 5)、この構成は、The Crying of Lot 49 に直接の言及が見られる「マクスウェルの悪魔」(“Maxwell's Demon”)を想起させる。 この概念に就いては簡単に解説を加えておく必要があるだろう。この「マクスウェルの悪魔」は「エントロピー」の概念と深い関わりを持つので、「エントロピー」という概念についての説明も加えながら解説しておく。まず Webster's third New International Dictionary による「エントロピー」の定義を揚げる。
2. in communication theory: a measure of the efficiency of a system (as a code [p.58] or a language) in transmitting information ... 3. : the ultimate state reached in the degradation of the matter and energy of the universe; state of inert uniformity of component elements; of form, pattern, hierarchy, or differentiation ... ここで問題になるのは主に第一の熱力学の第二法則に関する定義である。この法則を簡単に説明すれば、閉鎖系においては熱エネルギーは非可逆的に平衡状態に推移して行くと言うことである。例えば、0℃の水と100℃のお湯を同量混ぜるとやがては50℃のお湯になる。この現象を分子レベルで考えると次のように説明できる。温度が高いということは、分子レベルの現象としては、分子のスピードが早いということである。まずここで、速度の速い分子(黒玉)と速度の遅い分子(白玉)が2個ずつあり、それを箱の中に入れて混ぜるとする。(図1)この場合、黒玉、白玉が左右どちらかの側に偏る確率は、1/3 となる。(2/4C2=1/3) これが、黒玉、白玉それぞれ4個ずつの場合になるとその確率は1/35となる。(2/8C4=1/35) このように、黒玉、白玉が片側に偏る確率は、玉の数が多くなればなる程、小さくなって行く。分子といった極めて数の多い粒子を問題とする場合、或特定の分子が片側に偏る確率は殆ど0になる。熱力学の第二法則とは、こうして熱エネルギーが確率の高い状態、即ち、均質な平衡状態へ非可逆的に推移して行くことを示す。この推移過程をエントロピーが増大すると言う。この場合、熱機関は温度差を利用して動くので、エントロピーが増大すると、定義1のように、利用し得るエネルギーは減少して行くことになる。熱力学の第二法則を発見したのは、この小説でも言及される、クラウジウス(Rudolf Clausius) であり、それに確率論を導入したのが、ボルツマン(Ludwig Boltzman)とギブズ(Willard Gibbs)である。 クラーク・マクスウェル(Clerk Maxwell)は、このエントロピーの増大過程を逆転させる装置として「マクスウェルの悪魔」を考え出した。ここに平衡状態にあり、従って一様な温度を持つ気体が箱の中に入っており、外部とのエネルギーや物質のやり取りはないものとする。この箱を隔壁によって二つの部分(A・B)に分割する。但し、隔壁には扉の付いた穴が開いていて「マクスウェルの悪魔」が見張っている。(図2)「マクスウェルの悪魔」は穴に向かってくる分子を観察し、A から平均速度より速い分子がやってきた時には扉を開けてその分子を B に入れてやり、また B から平均速度より遅い分子がやってきた時にも扉を開けて A に入れてやる。すると、A には平均より遅い分子が、B には平均より速い分子が次第に集まってきて、その結果 B の温度が A の温度より高くなる。従って気体のエントロピーは初 [p.59]期状態よりも小さくなり、熱力学の第2法則は破られることになる。そして、このように外部からエネルギーを取り入れることなくエントロピーを逆転させる装置が存在し得るとすれば、その温度差を利用して作動する「永久機関」が存在することになり、人類は最早エネルギー問題に頭を悩ませる必要もなくなる筈だ。然し、もとよりそのような「永久機関」は存在し得ない。「マクスウェルの悪魔」の場合、分子を観察し、速度を判断して扉を開閉するには何らかのエネルギーが必ず必要になる。例えば、目によって観察する場合、分子に光を当てなければならないし、また速度を判断し扉を開閉する際にも、幾分かのエネルギーが費やされることになる。従って、外部からエネルギーを供給することなくエントロピーを減少させることは出来ないのだ。 この「マクスウェルの悪魔」と先に見たこの小説の構造には幾つかの重要な対応関係が有るように思われる。一つには、この小説が、同じアパートメントハウスの3階と4階に分割されていて、それぞれの記述が独立して現れる構造となっていること。また、4階のカリストーの部屋には3階のマリガンの部屋から雑音が進入してくるが、この二つの部屋は完全には隔離されておらず、いわば「穴」が有ってそこから「分子」が入り込んでくるのである。そしてその「穴」の扉を開閉しているのは作者自身だと言うことが出来る。最後に、先に揚げた「エントロピー」の定義4はこの概念の包括的定義であるが、この定義の後半部分に記述されているように「エントロピー」を「形態、パタン、階層構造、或いは差異の不在」を表す単位と考えれば、この小説の構造はテクストに階層構造を与えているのであり、いわば「マクスウェルの悪魔」と同様、テクストという「気体」のエントロピーを減少させる装置になっている。以上述べてきたようなこの小説の全体構造を考慮しながら具体的なテクストのテクストの分析に入って行きたい。この短編では先にも述べたように、マリガンの部屋の描写とカリストーの部屋の描写がそれぞれ4回ずつ交互に現れるが、ここでは便宜的に、マリガンの部屋を描写する断片 D-1 〜 D-4、カリストーの部屋を描写する断片を U-1 〜 U-4 と表すことにする。 まず、この作品の冒頭にはヘンリ・ミラーの Tropic of Cancer の冒頭近くの一文が、エピグラフとして揚げられている。
ー Tropic of Cancer
このエピグラフは読者をカリストーが恐れている「熱死」(“Heat-death”)という現代的アポカリプスの隠喩へと一気に引き入れてくれる。熱死とは、定義4の前半部分に記述されるように、宇宙という閉鎖系が、エントロピーの増大の結果最終的に陥る、一切の動きが停止した完全な熱平衡状態のことである。 このエピグラフは Tropic of Cancer というタイトルの提示よって、読者にその出所が明らかにされている。それはエピグラフに限ったことではなく、先にも触れたように、フォークナーの Sanctuary やデュナ・バーンズの Nightwood といった作品名への直接言及や、ヘンリー・アダムズ(“Henry Adams”(p.80))の The Education of Henry Adams への言及等にも共通したことである。 [p.60] この小説も含め、ピンチョンの作品は一般に間テクスト性(‘intertextuality’)が高いのであるが、他の作品への言及は、殆どの場合暗示的に行われており、この作品ほど言及の対象が明示されることはない。この小説で他の作品への言及が明示されるのは、恐らくこの小説のテクストという「システム」が閉鎖系ではないということを示す意図があったからだ。つまり、この小説のテクスト自体が熱力学的システムの隠喩となっている。そして、そのシステムが閉鎖系ではなく、外部から、つまり他のテクストからエネルギーを取り入れる開放系であるということが暗示されていると考えられる。 D-1 この小説は、3階のミートボール・マリガン(Meatball Mulligan)の部屋で進行しているアパートメントの「契約切れパーティー」(“lease-breaking party”)の描写から始まる。このパーティーは既に40時間目に入ろうとしており、乱雑を極めている。キッチンでは、シャンパンの空瓶の間で、サンドール・ロハス(Sandor Rojas)とその友人達が、シャンパンと中枢神経刺激剤のベンゼドリンの服用のよって無理矢理目を覚ましながらトランプをしている。また、居間ではデューク・ディ・アンジェリス(Duke di Angelis)というジャズ・カルテットの4人のメンバーが大麻を吸いながら、屑篭に組み込んだスピーカーに屈み込み、27ワットの大音響で “The Heroes' Gate at Kiev” というジャズの曲を聴いている。この時点では、ミートボール・マリガンは窓際で空の酒瓶を抱いて寝ている。さらに、何人かの政府関係の仕事をしている女の子が、ソファーの上、そして一人はバスタブの中で酔いつぶれている。この乱雑を極めた部屋は、いわば、エントロピーが極めて高い状態にあると言える。 サンドル・ロハス達が飲んでいるシャンパンはフランス産の Heidsieck であるが、テクスト上の表記は “Heidseck”(p.77) となっている。また、bulgur(トルコの食品の一種)も “bulghour”(p.78) となっている。その他にもテクスト中何箇所か通常の綴りと異なった表記が見られる。6) “bulghour” は言うまでもないと思うが、“Heidseck”という表記も、他の版でも同様の綴りとなっているので、間違いなく作者の意図的な操作と思われる。それでは何故このように通常とは異なった表記を用いたのかという問題に就いてここで若干の考察を加えておきたい。我々読者が上述の単語を誤った綴りから正しい綴りへと変換し読み取るプロセスには幾つかの条件が付随する。その最大の条件はここでは表記の類似性であると考えられる。“Heidseck” の場合 “i” が欠落し、“bulghour” の場合は “ho” が付け加わっている。我々はそれを補い、或いは削除して、これらの語を読み取るのだが、実は、ここにも「エントロピー」の問題が関わっている。先に揚げた定義3の情報理論におけるエントロピーの問題である。それによれば「エントロピー」は、「情報伝達におけるシステムの効率の単位」とされているが、この効率とは具体的には次のことを指す。例えば、ここに3文字から成る単語があるとする。ここでは仮に “ask” という語を例に取ってみる。この場合、効率がよいというのは、“aks” “sak” “ska” “kas” “ksa”、或いは、“asd” “asf” “ast” 等々が全て意味を為す単語であると言うことだ。つまり、3文字から成る単語の場合、アルファベット26文字から3文字を取りその全ての組み合わせが無駄無く機能する時に、効率は最も高くなるということである。単語レベルではなく文章についても同じことが言える。アルファベット26文字にブランクを加え、計27文字を無作為に並べ、その全てが無駄無く意味を為す文章となる場合、効率、即ち「エントロピー」は最も高くなる。こう考えた場合、言語というシステムはかなりエンロピーの低いシステムであるということが分かる。“a” “s” “k” から成る単語の場合意味を為すのは “ask”の [p.61] みであるし、ましてや文章の場合、例えば、ブランクを含めてタイプライターのキーを全く無作為に打って意味を為す文章が出来る確率は極めて低いものと言わざるを得ない。我々が “Heidseck” “bulghour” を正確に読みとり得たのは、実は、この言語システム自体のエントロピーの低さに依存している。例えば “Heidseck” 自体が “Heidsieck” とは別の意味を持つ単語であったり、或いは、“Heidsieck” の周辺に一文字違いの似通った単語が数多くあるとしたら、“Heidseck”=“Heidsieck” という読みは不可能になるだろう。ここで、この読み取りのメカニズムについて整理しておこう。まず、作者は言語システムに内在するスペリングの規則を冒すことによって言語のエントロピーを増加させる。それに対し読者は、言語自体のエントロピーの低さを利用して、増大したエントロピーを減少させることにより意味を読みとる。簡単に言えば、ここでは以上のようなメカニズムが働いているのだ。この問題は、実は、情報理論においては極めて重要な問題として扱われている。情報理論には、熱力学におけるエントロピーと同様に、(情報の)エントロピーは常に増大するという法則がある。情報のエントロピーは、メッセージが伝達される際に、情報の一部の欠落やノイズの混入によって常に増大すると言うのである。「伝達ゲーム」というゲームがある。比較的長い文章を最初の者から口頭で順次何人かに伝えて行き最後の者がこれを書き取って元の文章に近いグループが勝つというゲームである。その際情報は一人伝達される毎に欠落とノイズの混入により曖昧で不正確なものになって行く。メッセージの伝達には常にこのようなことが起こる。そして、メッセージの正確な伝達にはこのエントロピーの増大を食い止め、或いは増大したエントロピーを減少させる必要が生ずる。メッセージの受信者は正確な情報を得るためにエントロピーを減少させようと努力する。このメカニズムは小説のテクストと読者との間にも働く。小説とは一つのメッセージであり、読者はテクストで十分説明が為されていない欠落部分を補い、過剰な部分を削除することによってテクストのエントロピーを減少させながら、作者が伝えようとする情報を読み取ろうとするのである。“Heidseck” における “i” の欠落と “bulghour” における “ho” の過剰、そしてその欠落と過剰とを補い或いは削除し正確な情報を読み取ろうとする読者との間に働くメカニズムは、小説のテクストとそれを解読しようとする読者との間に働くメカニズムのモデルの機能を果たしている。言い換えれば、この作者の操作は小説のテクストと読者によるその解読のメカニズムに言及するメタレベルのメッセージを内包しているのだ。この問題についてはまた後に触れなければならない。 第2パラグラフにはこの短編の舞台となっているワシントン D.C.の雰囲気が描写される。そこには数多くのアメリカ人国籍離脱者(“American expatriates”)がたむろし、目下の所は政府の仕事をしているが、そのうちヨーロッパに行くつもりだ等と話している。彼らは複数の外国語を話すパーティー(“polyglot party”)を開き、アルメニア・レストランやトルコ・レストランに出没し、アンダルシアや南部フランスから来ている留学生と恋をしたがる。ここに描かれるのは、このように、異国情緒が漂い、多様な文化が入り交じる状況である。そして、こうした多様な言語、文化、価値観が入り乱れる状況は、「エントロピー」という観点から見れば、エントロピーが高い状態であると言うことが出来るだろう。そしてこのような状態はテクスト全体についても当てはまる。例えば、登場人物に関して言えば、この短編にはアングロ・サクソン系以外のマイナリティーに属すキャラクターが登場する。サンドール・ロハス(Sandor Rojas)はスペイン系もしくはメキシコ系であると考えられるし、オーバード(Aubade)はフランス人とベトナム人の混血である。このことはピンチョンの小説の一つの特徴でもある。例えば、この作品の直前に書かれた短編 Low-lands には、Rocco Squarcione というイタリア系の人物、Geronimo Diaz というメキシカン、[p.62] そしてジプシーも登場する。また言語に関しても、テクスト中にフランス語、イタリア語、ドイツ語、ハンガリー語、ラテン語、ヘブライ語、ギリシャ語等が用いられている。このテクスト自体が、言わば、“polyglot” なテクストなのだ。 次のパラグラフにはこの時期(2月初め)のワシントンの天候についての記述がある。この日は雨が降っており、その前の日は雪、更にその前の日は4月の様に太陽が輝いていたと述べられる。この冬と春の境目の時期、テクスト中の表現を使えば“false spring”(p.78) には天候も雑然とアット・ランダムに変化して行く。そしてこの時期は「一年というフーガのストレッタの楽節」と表現される。
先にこの短編が「対位法」的な構成になっていることを指摘したが、「対位法」はフーガに特徴的な技法である。この点に関して、David Seed は対位法的コントラストを描きながら展開するこの短編の構成をフーガ形式に対応させているが、この短編には音楽のアリュージョン、イマジェリー、用語が多用されていること、「フーガ」という言葉、イメージが数回印象的に現れること等を考え合わせると彼の指摘はかなり説得力を持つように思われる。本来、「フーガ」とは古典的音楽形式であり、音楽に厳格な形式を与え秩序化する原理である。一年が春夏秋冬という「形式」によって秩序化されていると考えれば、それをフーガに譬える比喩は妥当なものと言えるだろう。しかしここに描かれているのは、冬とも春ともつかない、言わば、「形式」から逸脱した時期なのである。そのことは、この言葉が “months one can easily spent in fugue” と別の意味で用いられていることからも窺える。ここでの “fugue” は精神医学用語で、「朦朧状態」、正確に言えば、或る行為を夢中で行い後にその行為を思い出すことが出来ない「意識中断状態」を意味する。それ故「2月と3月はこの町ではまるで存在していなかったかのように決して思い出されることはないのだ。」つまり、「形式」によって規定されている通常の状態から逸脱しているが故に記憶の中に整理されて残ることもないのだ。Seed が指摘するように、確かにこの短編の構成は「フーガ形式」と対応関係を持つようである。しかしこの部分には、テクストの構造に言及する別の暗示を読み取ることが出来るように思われる。つまり、テクストは「形式」によって秩序化されているが、そこには同時にその「形式」から逸脱する力が働いているということである。この問題はテクスト全体の構造に関わる問題であり、従ってテクストの分析を終えた所で再び考察しなければならない。 U-1 ここでマリガンの部屋の描写は一端終わり、舞台はカリストーの部屋に移る。この場面は階下でかかっている The Heroes' Gate of Kiev の大きな音でカリストーが目覚めるところから始まる。その時彼は病気で弱った小鳥を抱き、自分の体温を伝えることによって回復させようとしている。彼の部屋は温室になっていて、アンリ・ルソーの絵画のように熱帯植物が生い茂り、小鳥達が囀る [p.63] 幻想的な空間をなし、外界から隔離されている。
このように、この部屋は D-1 にも一部描かれた外界の「混沌」に対し「規則性の小さな飛び地」(“a tiny enclave of regularity”)として作られ、カリストーはそこに「生態系の均衡」(“ecological balance”)と「芸術的調和」(“artistic harmony”)を維持しようとしている。この部屋にはカリストーの他に、この「芸術的調和」の達成を助けるフランス人と安南人の混血の女性 Aubade が住んでいる。ここで “harmony” という音楽用語が用いられていることは暗示的だ。彼女の名前 “Aubade” は「暁の歌」という意味を持つが、彼女はその名前の如く音楽を体現するような人物として描かれている。
彼女の感覚は全てのものを音楽的表現に還元してしまう。そして “discordancy” (不協和音、不調和)の中から“harmony”を作り出すのだ。 オーバードという名前が或る意味を内包するように “Callisto” という名前にも意味がある。カリストーとは、ギリシャ神話で月と狩猟の女神アルテミスの侍女で、純潔の誓いを立てていたにも拘わらず、ゼウスに犯され妊娠したために熊に変えられてしまう。作品との関わりを考えると、部屋を外界の混沌から隔離し調和を保とうとするのは「純潔」を守ることと対応する。そしてギリシャ神話の「カリストー」が純潔を守り得なかったという事実は、この作品の「カリストー」の試みが結局最後に失敗すること暗示しているのかも知れない。このように、ピンチョンの作品には主要な登場人物の名前に作品の内容に関わる暗示が内包されている場合がよくあるのだが、マリガン(Mulligan)という名前にもそのような暗示があるように思われる。一つはテクスト中にも言及があるジャズ演奏家のゲリー・マリガン(Gerry Mulligan)との対応関係であり、もう一つはジェイムズ・ジョイスの Ulysses に登場するバック・マリガン(Buck Mulligan)との対応関係である。 「カリストー」という名前と対比して考えると、ここには「古典」と「現代」という対立があるように思われる。「カリストー」がギリシャ神話という古典的世界から取られた名前である一方、「マリガン」はゲリー・マリガンというモダン・ジャズの前衛的な演奏家、或いは、Ulysses という極めて現代的な小説から取られている。音楽的な観点から見ると、マリガンの部屋に流れるモダン・ジャズは不協和音を多用し即興性に依存する自由な音楽形式である。その中でもゲリー・マリガンは、テクスト [p.64] 中 D-4 の部分でも言及されるように、ピアノもギターも入らないカルテットを結成したことで有名であり、それは「基本コードが存在しない」(“no root chords”(p.91))ことを意味する。そして、曲全体を支配する基本和音が無ければ、その曲は益々混沌としたものにならざるを得ない。それに対して、カリストーの部屋を支配する音楽のイメージは、厳格な形式に従い、調和のとれた和音に支えられる「古典音楽」のイメージであると考えられる。カリストーの部屋の描写が階下からのジャズの音の侵入で始まるのは暗示的だ。それは規則性を保つカリストーの部屋に、外界の混沌が侵入してきたことを意味し、部屋を外界から隔離することによってその規則性を維持しようとするカリストーの試みが畢竟不可能であることを暗示しているように思われる。 カリストーはオーバードに寒暖計を見に行かせる。寒暖計の目盛りは華氏37度を指している。ここ三日間気温は変化していない。カリストーはそこに「熱死」の兆候を認め、脅えている。
ここではヘンリー・アダムズへの言及があるが、この点については U-2 で論じなければならない。カリストーはこうして世界が「熱死」に陥ることに偏執的恐怖を覚えているのだが、病んだ小鳥を手で暖め回復させようとする行為は、この恐怖と密接な関係を持つ。
「熱死」とは宇宙が完全な熱平衡状態に陥り、一切の熱エネルギーが伝わらなくなるということであり、それに対し、手で暖めるということは自分の体温が病んだ小鳥に伝わるということを意味する。それ故、彼の体温が伝わり小鳥が生き続けるということは、彼にとって、「熱死」が訪れていないことの保証となるのだ。カリストーが小鳥を回復させることに拘り続けるのは、その行為にこうした象徴的意味合いがあるからに他ならない。 D-2 この断片は U-1 が The Heroes' Gate at Kiev の最後の音でカリストーが目覚めるのに対応して、その同じ音でマリガンが目を覚ますところから始まる。マリガンは起きるとまず迎え酒にテキーラ [p.65] サワーを作る。彼は女の娘がバスタブで寝込んでいるのを発見し彼女を起こす。彼女はシャワーの所に行き、冷たい水を出してその下に座り込む。ここで、階下に住むソール(Saul)が窓から入ってくる。それから、ジョージ・ワシントン大学の女子学生が三人、パーティーがあると聞きつけて、キャンティーワインを持ってやって来る。サンドール・ロハスは彼女達を見て “Young blood”(p.82) と叫ぶが、この表現は、ここで合計四人の人物が新たにこの部屋に入って来ることに示されるように、この部屋が外に向かって開かれ新陳代謝を行なう開放系であることを暗示しているように思われる。 U-2 ここでカリストーは自伝を口述しオーバードに書き取らせている。この自伝は先に U-1 で言及されたヘンリー・アダムズの The Education of Henry Adams と形式的にも内容的にも関連性を持つ。そしてそのことは Slow Learner の序文でピンチョン自身がこの短編について述べている箇所からも窺える。
歴史家であるヘンリー・アダムズは The Education(以下同様に省略する)に於いて、かつては世界を動かす力として存在していた聖母(the Virgin)に代わり、現代の熱機関である発電器(the Dynamo)に無限の象徴を感じる。 ... to Adams the dynamo became a symbol of infinity. As he grew accustomed to the great gallery of machines, he began to feel the forty-foot dynamos as a moral force, much as the early Christians felt the Cross. 7) 彼は、“The greatest of Americans, judged by his rank in science”8) と、「エントロピー」に確率論を導入したギブズに言及しているが、彼はギブズの理論に多大な影響を受け、彼の研究対象である歴史にもエントロピーの法則が適用し得ると認識する。つまり歴史の過程はエントロピーの増大過程なのだと認識するのである。彼は言う、
畢竟、世界は「混沌」へと向かって行かざるを得ないのだ。カリストーは、エントロピーの増大が益々進行する1957年の時点で、アダムズと同様の悲観的認識を抱きながら、彼に習って自伝を口述筆記しているのである。更に、アダムズは書くことに就いて次のように述べている。
アダムズにとって書くこととは、迷路・混沌の中を進んで行くのに必要な道具として機能している。The Education 自体が迷路の中で自分が進んできた道を明確にし、これから進んで行くべき道を発見するために書かれたと言うことが出来るだろう。この自伝の中で彼が自分を三人称で表現するのも、この迷路を俯瞰する位置に視点を置こうとしているからに他ならない。そして、カリストーがアダムズに倣って自伝を三人称で書いている理由もそこにあるのではないか。 カリストーは、その自伝の中で、学生時代に習った「熱力学の法則」の重要性を中年になって初めて理解したと述べている。そして、あらゆる現象をエントロピーの法則を基に再評価せざるを得ない状況に追い込まれて行く。
その際、彼は「還元主義の誤謬」(“the reductive fallacy”)と、それによってもたらされる悲観的な運命論を回避するために、「能力と運命の力」(“virtu and fortuna”)は半々なのだいう楽観主義を採ろうとする。然し、彼は現在、そこに「ランダムな要素」(“a random factor”)が入り込むことにより、その等式が崩される危機を覚えている。 つまり、断続的な車の警笛や階下から聞こえてくるジャズ等の騒音侵入によって、彼が自分の力で作り上げた「規則性の小さな飛び地」が冒されるという危機感だ。それはとりもなおさず、その等式が崩れ、〔「能力」<「運命」〕という不等式になるということを意味する。そして彼は恐怖心からこの「能力」と「運命」の力の割合を計算することが出来ないでいる。一方、オーバードも、この規則性を乱す要素の侵入に対し、カリストーが言うところの「フィードバック」(“feedback”)によって、絶えず「再調整」することを強いられる。
カリストーは更に口述筆記を続ける。彼は本論の冒頭でも述べたように「エントロピー」の概念が彼自身の世界を的確に表象する隠喩として機能しうることを発見する。
彼は「熱死」を宇宙論的な観点から捉えるのみならず、「文化」にも当てはまる概念だと考える。つまり、例えば、かつてキリスト教的世界観によって形作られていたような価値のヒエラルキーが崩壊し、如何なる「観念」も等価で均質なものとなって伝わらなくなり、「知的な動き」が停止してしまうと考えるのである。ここでカリストーはその一つの要因として「消費主義」(“comsumerism”)を挙げているが、彼が言うように、この「消費主義」は、様々な意味で、エントロピーが増大する現代の状況を象徴しているように思われる。例えば、熱力学的観点から見れば、消費主義はエネルギー資源を大量に消費し熱として発散させることにより、エントロピーを増大させている。また、文明論的観点から見ると、消費主義は物質資源を商業製品に変え、更にその製品が大量消費の末に廃棄されてゴミという最早利用できない均質なものとなり、こうしてエントロピーは増大して行くのだ。Low-lands に描かれるゴミ廃棄場は、そのようにエントロピーを増大させる現代文明を見事に象徴する場所となっている。そして更に、文化的観点から見ても同様のことが言えるのかも知れない。消費主義はあらゆる価値を商品価値に還元してしまう。例えば、労働の価値はそれ自体が一つの商品であると同時に、その労働が作り出す商業製品の価値、或いは、その労働の代価として購入しうる商業製品の価値に還元されてしまう。消費主義の発するメッセージはたった一つなのだ。つまり「商品を買え、そして消費せよ」という画一化されたメッセージだ。ノーバート・ウィーナーは次のように述べている。
結局、「きまり文句」、画一化されメッセージは新しい意味のある情報を伝達し得ないのだ。この消 [p.68] 費主義を支えてきたのはテレビ等の現代のマスメディアである。この消費主義の画一化されたメッセージはマスメディアによって発せられてきたのである。そして我々は情報を益々それらマスメディアに依存しこうして世界は画一化されたメッセージで埋め尽くされて行く。更に、マクルーハンの言うように「メディアはメッセージである」(“The medium is the message.”)のだとすれば、メッセージ自体の内容は完全に無意味化されてしまうだろう。カリストーが不安を抱いている現象は現実に我々の回りで進行しているのだ。「熱死」に対する彼の恐怖は、言わば、このような「文化の熱死」に対する恐怖でもあり、彼は気温が変化しないことを、そのような意味での「熱死」の前兆として、象徴的に捉えているのである。ここで彼は再び寒暖計をチェックさせるが、目盛りは相変わらず37度を指している。 D-3 この断片はマリガンと D-2 で登場したソールとの会話で始まる。ソールは喧嘩の末、妻のミリアム(Miriam)に逃げられ、その件についてマリガンに話を聞いて貰おうとやって来たのである。ここで二人の間に交わされるのは、喧嘩の発端となった「コミュニケーション理論」(“communication theory”)についての議論である。ミリアムは科学雑誌を読んでいて「人間のように振る舞うコンピューターの概念」(“this idea of computersacting like people”(p.86))に戸惑いを覚えるが、ソールはそれに対して、逆に「IBM のコンピューターに入れたプログラムのように振る舞う人間の行為について語ることも出来る。」と答え、ミリアムを怒らせてしまう。彼にはミリアムが怒った理由が解らないが、マリガンはその理由について次のような推測を述べる。
ソールはそれに異議を唱えるが、彼は政府の情報関係の部局に勤務しているらしく、コミュニケーションに関しても効率を重視する科学者的な見解を抱いているのは事実のようだ。更にマリガンがその喧嘩の理由を「言語の伝達障害だな」(“Language barrier”)と言うと、ソールは次のように述べる。
ソールによれば、「愛する」(“love”)といった曖昧な言葉は一種の「ノイズ」であり、それによってコミュニケーションの回路内に「無秩序」(“disorganization”)を助長する、言い換えれば、内部のエントロピーを増大させるのである。従って、彼の見解によれば、「信号」(“signal”)を正確に伝えるためには、そのような曖昧な言葉は締め出し、コミュニケーションの回路を閉鎖回路 [p.69] (“a closed circuit”)に保たなければならないということになる。このようにコミュニケーションの回路を閉鎖回路にすることによって「ノイズ」というエントロピーを増大させる要因を締め出すと言う考え方は、カリストーの試みと明確な関連性を持つ。ソールの議論は、言わば、カリストーの試みをコミュニケーションに適用したものに他ならない。先に述べた「マクスウェルの悪魔」の比喩に従うと、マリガンの部屋からカリストーの部屋へ侵入するのがパーティーの雑音とするならば、ソールの理論は、言わば、カリストーの部屋からマリガンの部屋への侵入物である。そしてもちろんこの操作を行っているのはピンチョン自身なのだ。 ここで簡単に情報理論におけるエントロピーの問題に触れておきたい。D-1 で既に触れたように、情報のエントロピーはメッセージの一部の欠落やノイズの混入によって常に増大し、メッセージの伝達を妨げる。然し、情報におけるエントロピーにはもう一つの側面がある。一般に情報のエントロピーが増大すればする程、そのメッセージは曖昧になるが、潜在的な情報量は増えて行くのである。12) 例えば、数学の言語と詩の言語を比較してみよう。数学の言語は極めて厳格な規則に基づく規則性・組織性が高い言語であり、それ故、曖昧性が入る余地は殆ど無い。然し同時に、例えば、X=a という記述はそれ以外の如何なる潜在的意味をも持ち得ない。それに対し、例えば文学の言語は、作家個人の独特な言語使用により屡々一般的な言語使用上の規則を犯す、言わば、エントロピーの高い言語であり、そのような文学的表現は多くの場合曖昧性を内包することになる。然し、例えば「隠喩」等の文学に特徴的な表現は、多様な解釈を許す曖昧な表現ではあるが、同時に、読者に様々な意味を喚起するという点で、潜在的情報量が多いと言うことが出来る。 ソールの言うように “I love you.” という表現から “love” を削除すれば、確かに、曖昧性が混入する余地はなくなるが、それによって伝達される情報量は極めて限定され、この場合、意味のある情報は殆ど無くなってしまう。「愛」といった人間或いは人間の感情に関わる言葉は確かに抽象的で曖昧ではあるが、そのような言葉の使用を完全に禁止すれば、人間や人間の感情に関わる問題について議論することは出来なくなるだろう。文学が多かれ少なかれそのような人間に関わる問題を扱うものであるとすれば、ソールの考え方に従うと文学は成立しなくなる。このように考えてくると、この部分でのソールとマリガンの会話は文学のテクストの問題と深く関わってくることが解る。この点についてはまた後に考察しなければならない。 彼らの会話は更に続くが、情報におけるエントロピーの法則に従うかのように、二人の会話には「ノイズ」が侵入してくる。
“Ha! Half of what you just said, for example.” “Well, you do it too.” “I know.”Saul smiled grimly. “It's a bitch, ain't it.” [Underlines mine] (p.87) 下線部は情報としては殆ど意味を持たない「ノイズ」であるが、マリガンもソールも会話がこの「ノイズ」に冒されていることを認めざるを得ない。「ノイズ」の介在しない会話など畢竟存在し得ないのである。それに続く彼らの会話はそのことを実証しているように思われる。[p.70]
“Aarrgghh.” “Exactly. You find that one a bit noisy, don't you. But the noise content is different for each of us because you're a bachelor and I'm not. Or wasn't. The hell with it.” “Well sure,”Meatball said, trying to be helpful,“you were using different words. By‘human being’you meant something that you can look at like it was a comuputer. It helps you think better on the job or something. But Miriam meant something entirely ー” “The hell with it.” Meatball fell silent. “I'll take that drink,” Saul said after a while. [Underlines mine] (p.87) ソールは結婚を支える最低限の基盤は “Togetherness” (一体感)であると述べるが、その言葉が「愛」と同様に曖昧な意味の「ノイズ」であることに気付き、その意味を明確にしようとするが、“The hell with it.” と、もう一つの「ノイズ」とともに議論を打ち切ってしまう。それに対してマリガンは、“trying to be helpful” という表現にも見られるように、何とか彼の抱える問題を理解し、その問題の所在を明らかにしようとする。然し彼はソールが再び発する “The hell with it.” という「ノイズ」によって沈黙に陥らざるを得なくなる。 こうして二人は会話を中止するが、部屋ではサンドール・ロハスがポーカーを止めてテキーラを飲み始め、ジャズカルテットのメンバーのクリンクルズ(Krinkles)が先程やって来た女子学生の一人と話をしている。二人の会話は “amorous conversation”(p.87) となっているが、その内容はジャズ・ピアニストのデイブ・ブルーベック(Dave Brubeck)についての冗談である。彼のピアノの演奏は、例えば、オスカー・ピーターソンのように装飾音を多用し技術をひけらかすような演奏ではなく、音を抑えた地味な演奏なのだが、クリンクルズは、それは彼がマンハッタン計画に携わったことがあり、その時の放射能被曝のために鉛の手袋をはめていなければならないからだと語る。その話に女子学生は相槌を打ちながら、最後には “What an awful break for a piano-player.”(p.88) と同情を示す。ここには、愛とか情欲を示す表現は一切見られない。言い換えれば、この会話には、“amorous conversation” の目的に適う情報的価値を持つメッセージが一切存在しない、つまり全ての表現が「ノイズ」なのだ。それにも拘わらず “amorous conversation” が成立し得るとしたら、それは、会話という行為それ自体、或いは、会話をしようとする両者の意志によって成り立つのかも知れない。皮肉なことだが、それを別の言葉で言えば、ソールの言う “Togetherness” ということになるかも知れない。 これらの会話は相対立する二つの観点から見ることが出来る。一つは次のような見方だ。つまり、これらの会話が、情報への「ノイズ」の混入が進行し、遂に会話全体が「ノイズ」に冒されてメッセージが伝達されなくなるという、言わば、情報におけるエントロピー増大過程のパロディーになっているという見方だ。その場合、この会話には何ら情報的価値は無く、仮に何事かが伝わると [p.71] してもそれは情欲という極めて原始的な感情に過ぎないということになる。このような見方はカリストーとソールの見解に対応する。もう一つの見方は、ソールの理論とは対極的に、仮に情報が完全に「ノイズ」に冒されてしまったとしても、互いに会話をしようとする意志さえあれば、コミュニケーションは成立するという見方だ。マリガンの見方はむしろこちらに属す。彼は、先に見たように、ソールとの間に何とか会話を成立させようとし、先程の引用の下線部分で、ソールの考え方は彼の仕事には有効であるかも知れないが、こと人間或いは人間関係の問題に関しては無効であると述べて、彼の考え方を批判している。別の言い方をすれば、マリガンはエントロピーを減少させるために、回路を閉鎖し外部からの「ノイズ」の侵入を防ごうとする考え方に対して異論を唱えているのである。実際、マリガンの部屋には次々と外部から人が訪れ、彼の部屋を混乱に陥れ、エントロピーを増大させるのである。カリストーの部屋が閉鎖系であるとすれば、マリガンの部屋は開放系なのである。このようにこれらの会話に関しては相矛盾する見方が出来るのであるが、ここでは両者を対立項としてそのまま提示しておかなければならない。 マリガンとの会話を打ち切るとソールはテキーラを飲み始める。そこへマリガンの部屋を売春宿と間違えた海軍の下士官が五人やって来て、部屋は益々混乱に陥る。彼らの一人は「売春宿」(whorehouse)を “hoorhouse” と言うが、先に述べたように、この誤った綴りは言語のエントロピーを増大させるものであり、それは彼ら自身がエントロピーを増大させるノイズであることを暗示しているように思われる。そしてマリガンがこのような事態に対して最後に発する言葉も “Oh, my god”(p.89) という「ノイズ」なのである。この部屋で発せられる言葉は文字どおり益々「ノイジー」になって行く。 U-3 この断片の気温が華氏37度の侭であることを告げる記述で始まるが、次のようなオーバードの描写がそれに続く。
オーバードは、カリストーが小鳥を慈しむように、ミモザの枝を愛撫しながら、樹液の上がって行く音に耳を傾けているが、ウィーナーも述べているように、生物とは自立的に自らの組織性・秩序を維持するエントロピーの飛び地である。カリストーにとって小鳥がそうであるように、ミモザはオーバードにとって組織性・秩序の象徴なのだ。彼女はその生命の営みに耳を傾けているが、下線部の音楽用語の多用に示されるように、そこに音楽を聴き取っている。その音楽は、「階下のパーティーな即興的不協和音とフーガ風に争う秩序のアラベスク」と表現されるように、ハーモニーを持つ秩序ある音楽なのだ。また、先にこのテクストがフーガの対位法に従う構成になっていると述べたが、 [p.72] ここでの表現はそのことを暗示している。そのような状況の中で、彼女は「信号と雑音の比率」(所謂、S/N 比)のバランスを保とうと全力を尽くしている。 一方カリストーは「熱死」という概念に正面から向かい合おうとしている。彼はまず彼が置かれている「熱死」という状況に「対応するもの」(“correspondences”(p.89))を探そうとする。
ここに挙げられている作家、小説は何れもこの短編自体と対応関係を持つものでもある。最後の挙げられているタンゴに関して、カリストーはストラヴィンスキーの「兵士の物語」(“L'Histoire du Soldat”)に言及している。「兵士の物語」は九部からなるバレー音楽で、その第六部が “Tango - Walts - Ragtime” となっている。この曲の特徴は、テクストでも言及されるように、クラリネット、コルネット、バスーン、トロンボーン、ヴァイオリン、ダブルベース、パーカッションから成る小規模なオーケストラによって演奏されるという点だ。ここでまず注目しておきたいのはこの編成にはピアノが入っていないということである。このことは後に D-4 で、デューク・ディ・アンジェリスのメンバーがする音楽についての議論と対応関係を持つので記憶に留めておかなければならない。この曲が作られたのは第一次大戦中だが、カリストーは戦後の疲弊し、混乱した状況を思い浮かべながら、次のように述べている。
この一節は何を言おうとしているのかかなり曖昧な点がある。つまり現在カリストーが陥っている疲弊し、逼塞した状況との対応関係の指摘に力点が置かれているのか、それとも数少ない楽器で何事かを伝達し得たということに力点が置かれているのか明確でないということだ。どちらに力点を置いて読むかによって意味は正反対になってしまう。このような構造は、D-3 で見たマリガンとソールとの会話の解釈が相対立する二つの視点から読みうることに対応するように思われる。 ここでカリストーは第二次大戦後の自分自身の体験を思い起こす。彼が戦後ニースに戻ると、愛人のセレストはもう居なくなっている。彼は代わりにヘンリ・ミラーの小説を買ってパリに向かう。そしてその小説から「警告」(“a little forewarning”(p.89))を受けることになる。それはもちろん現在彼が恐れている「熱死」に対する警告だ。そしてこの警告は先に引用したこの短編のエピグラフに繋がっている。 D-4 マリガンの部屋では先程入って来た海軍の連中が、酒と女を取り替えようなどと言いながら結局は帰らずに、台所に引っ込んでしまう。一方デューク・ディ・アンジェリスのメンバーは、楽器を持たずにジェスチャーだけの演奏をしている。やがてその演奏(?)が一段落するとマリガンを相手に音楽についての議論を展開する。ここで話題になるのは、先にも触れたように、マリガンと同 [p.73] じ姓を持つジャズのバリトン・サックス奏者ゲリー・マリガン(Gerry Mulligan)とトランペッターのチェット・ベイカー(Chet Baker)が結成したカルテットのことである。このカルテットの特徴はギターもピアノも入っていないという点だ。その意味は次の会話で明らかにされる。
“No chords,”said Paco, the baby-faced bass. “What he is trying to say,”Duke said,“is no root chords. Nothing to listen to while you blow a horizontal line. What one does in such a case is, one thinks the roots.” A horrified awareness was dawning on Meatball.“And the next logical extension,”he said. “Is to think everything,”Duke announced with simple dignity.“Roots, line, everything.” (p.91) つまり、ピアノが無いということは、基本コードが無いということであり、それ故演奏者は基本コードを想像しながら旋律を演奏しなけれはならないということになる。この理論を更に進めれば、「全てを頭で考える」演奏法に帰結する。彼らが楽器を持たずに行っていたのはこのような演奏だったのである。 ここで展開される議論はカリストーやソールの考え方と複雑な対応関係を持つように思われる。カリストーとの対応関係は、U-3 で触れたように、彼が言及した「兵士の物語」がピアノが入らないオーケストラによって演奏されるという事実によって暗示されている。一方、ソールとの対応関係は、両者とも理論の帰結として沈黙に陥るという共通点によって暗示されている。つまり、ソールの場合には彼の情報理論の帰結としてコミュニケーションが、デューク・ディ・アンジェリスの場合には彼らの音楽理論の帰結として演奏が行われなくなり、その結果、何物も伝達されなくなるということだ。一方、カリストー場合も、先にも述べたように、彼は室内のエントロピーを低い状態に保っておくために閉鎖系を作りだそうとするが、それは、言わば、外部とのコミュニケーションを閉ざす行為だと言えるので、その点では両者と共通している。このように三者とも最終的にはコミュニケーションが閉ざされるという点では共通している訳だが、それぞれそこに到達する過程においては相違がある。カリストーの場合、彼は初めから外部とのコミュニケーションを断つことによって、内部の規則性を維持しエントロピーを低い状態に保とうとしている。それに対しソールの場合、彼は初めからコミュニケーションを断とうとしているわけではない。むしろコミュニケーションにおいて正確な情報を伝達するためにその回路を閉鎖回路にし、「ノイズ」を締めだそうとするのだ。然し、彼の意図にも拘わらず、会話の中に「ノイズ」が侵入しエントロピーが増大して、その結果、彼は情報を伝達し得ないという認識に達しコミュニケーションの行為を停止するのである。デューク・ディ・アンジェリスの場合カリストーとは全く逆の過程を辿る。つまり、先に述べたようにジャズはもともとエントロピーの高い音楽形式であるが、「基本コード」を取り去るということは、更に演奏上の規制を取り払いエントロピーを高めるということに他ならない。彼らは演奏上の規制を排除し自由な演奏を行うことを意図していたのであり、その意図の究極的な結果が音という音楽上のメッセージの不在に行き着くのである。つまりエントロピーの増大がそのままコミュ [p.74] ニケーションの不在に結びついているのだ。敢えて図式化すれば、同じ結果に行き着く三者の過程は、カリストーとデューク・ディ・アンジェリスの両極を挟んでソールが位置するという図式になる。 デューク・ディ・アンジェリスは無音の演奏を再開するが、クリンクルズは演奏している筈の曲目を間違えてしまう。
結局は、演奏している当人達の間でもコミュニケーションが不通になってしまうのだ。ここで “airless void” という言葉が使われているが、これはカリストーが U-3 の引用の中で使っていた “airlessness”(p.89) という言葉と響きあう。畢竟両者とも理論だけの世界にはまり込んでいるのだ。デューク・ディ・アンジェリスは頭の中だけで音を考えている。そしてカリストーは隔離された部屋の中でひたすら考え続け、外部に向かって行為しようとはしない。彼の部屋は、言わば、頭蓋骨を表象しているのかも知れない。 台所では益々混乱が進んでいる。喧嘩が始まり、騒音は高まり、マリガンがバスタブから助け出した女の子はシャワーを出しっぱなしにしていたため、首まで水に浸かり溺れそうになっている。まさにこの部屋のエントロピーはピークに達しようとしているのだ。この状況の中で彼は二つの選択肢を考える。
(a) の押入に閉じこもって何もしないという選択肢は、隔離された部屋に閉じこもるカリストーの姿を端的に思い出させる。結局マリガンはこの選択肢は取らないで (b) の混乱を収めるという行動にでる。ここには明らかにカリストーとマリガンとのエントロピーの増大に対する対応の違いを認めることが出来る。つまりカリストーは外部から閉鎖された部屋に閉じこもりただひたすら思考するだけで、外部のエントロピーの増大に対して積極的にそれを抑えようとする行為を行わないのに対して、マリガンは外部からの混乱の侵入を阻もうとせず、その結果として起こった彼の部屋のエントロピーの増大を自らの行為によって減少させようとするのだ。またマリガンはこの選択を理論的に考えた末行ったのではなく、むしろ自分にとってどちらが不快かといった生理的レベルで行って [p.75] いるように見える。ミートボール・マリガンの Meatball とは、頭脳が無い肉だけの存在という意味で、馬鹿な奴といった意味を表すのだが、カリストーが頭脳・理論、彼の部屋が頭蓋骨を表象するのだとすれば、マリガンは肉体・行動、彼の部屋は頭から下の体の部分を表象すると言える。 U-4 カリストーの部屋には階下の騒音が益々侵入しエントロピーは更に高まり続ける。気温も相変わらず華氏37度の侭だ。その中でカリストーの抱いていた小鳥は遂に死んでしまう。カリストーの最後の言葉は次のようなものだ。
彼は遂に「熱死」の訪れを認識し最後は言葉を言いきることなく沈黙に陥ってしまう。一方オーバードは、
という表現にも窺えるように、エントロピーの増大に抗しきれなくなり、彼女の秩序ある世界は既に崩壊している。そして彼女は遂に温室のガラスを手で割ってしまう。そしてこの断片、そしてこの短編は次のような「熱死」の訪れを暗示する描写で終わる。
ここまでテクストを詳細に分析してきたが、例えば、マリガンとソールの会話が相対立する二つの視点から解釈し得たように、これまで示してきた解釈は必ずしも首尾一貫した作品解釈に還元し得ないかも知れない。また首尾一貫した解釈に還元するとは、その解釈と矛盾する要素を「ノイズ」として排斥することに繋がり、それは、言わば、カリストーやソールの行為と同じことになりかねず、それ故、部分部分の解釈を拡散したままにしてペンを置く(否、正確にはパソコンのキーから手を離す)べきなのかも知れない。もっともテクスト中私が分析してきた箇所は私が作品全体を視野に入れた上で恣意的に選択したものであり、たとえそれが無意識的なものにせよ、解釈の一本の筋に沿って選択されたものに他ならず、その意味では既にその行為は開始されているのだ。また仮 [p.76] に私の解釈が「ノイズ」をも含んだ「開放系」としての解釈になり得ているとするならば、矢張り、マリガンに倣って多少なりともそのエントロピーを減少させておかなければならないだろう。 まずは作品全体の大まかな解釈をしてみる。カリストーの部屋を描写する部分は「エントロピー」の概念とその象徴的な意味を示すこの作品の論理的な基礎を形成しているという点で重要性をもつ。一方、マリガンの部屋の描写はエントロピーの増大を具体的な現象として表している。その意味でも、カリストーの部屋が頭脳で、マリガンの部屋は肉体であると言うことが出来る。然し、両者は互いに独立したものではなく、フーガの対位法に倣った構成によって、一つのテーマのもとに互いに結び合わされている。また同時に、マリガンの部屋にはソールの理論やデューク・ディ・アンジェリスの音楽理論という形でカリストー的なものが侵入し、逆にカリストーの部屋にはマリガンの部屋の騒音が侵入するという構造によっても、両者は相互に関連付けられているのだ。そしてこのような構造をもとに、エントロピーの増大に対するカリストーとマリガンの対応の仕方が対比的に描かれる。カリストーは、既に述べたように、部屋を外部から遮断することによって規則性の飛び地をつくろうとする。「カリストー」という名前はここでも象徴的な意味を持つように思われる。つまり、ギリシャ神話のカリストーはアルテミスの侍女として、純潔を強いられるが、純潔とは処女膜によって肉体を閉ざすということである。そして男性を受け入れることなしには何物も産み出されることはない。この作品のカリストーが閉鎖系を作り出すことによって何も産み出すことなく、最後には沈黙という情報伝達の停止状態に陥ることが既にその名前によって暗示されていたのだ。一方、マリガンは外部から侵入してくるものを自由に受け入れ、それによってもたらされたエントロピーの増大を自らの行為によって低下させようと努力する。このマリガンの行為にはエントロピーが増大する現代の状況に対処する一つの可能性が示唆されているように思われる。然し、ここで注意しておかなければならないのは、作者が必ずしも「カリストー/マリガン」という二項対立を設定して、カリストーを否定しマリガンを肯定しているわけではないということだ。つまり、先にも述べたように、マリガンは現代のエントロピーが増大する状況を理論的に認識した上で、それに対処すべく行動にでた訳ではない。もしマリガンの部屋の描写だけを念頭に彼の行動を解釈すれば、それは単に部屋の中が混乱して如何ともしがたくなり、快・不快といった判断から、嫌々ながら混乱を収めようとしたに過ぎないということになってしまうだろう。マリガンの行為は、カリストーが展開する現代文化に関する理論と結びつけた時に初めて、現代のエントロピーの増大に対する一つの可能な対処の仕方として意味を持ち得る。畢竟「頭脳」と「肉体」とは単独には意味を持ち得ないのだ。 U-2 で引用したように、ピンチョンは Slow Learner の序文の中で、ヘンリー・アダムズの The Education と並びノーバート・ウィーナーの The Human Use of Human Beings がこの短編のテーマに強い影響を与えていることを明らかにしている。本論ではその影響の一つ一つを示さなかったが、ウィーナーの著書がエントロピーの問題や情報理論の問題に関して、この短編に理論的枠組みを提供していることは明らかに見て取れる。彼はその中で「熱死」が訪れるという現実は認めながらも、繰り返し必ずしも悲観的になる必要はないと説いている。例えば、次のような記述がある。
カリストーの悲観論がアダムズの悲観論に対応するとすれば、マリガンの楽観論はウィーナーの楽観論に対応する。そして彼は、我々人間を含めた生物は「エントロピーの減少する島の一つ」なのであり、「われわれ生物が腐敗や崩壊の一般的な流れに抵抗してゆく過程はホメオスタシス(恒常性)として知られる。」14)と述べている。「ホメオスタシス」とはアメリカの生理学者W・Bキャノンが提唱した概念だが、それによれば、生物は「開放系」でありエネルギーや構成物質を外界から出し入れし、常に外界の影響を受けているにも拘わらず、その形態や状態を一定に保っていて、それが生命の特徴となっている。そしてその特徴を「ホメオスタシス」と名付けたのである。この短編は、先に述べたように、「頭脳」と「肉体」という構造を持っている。そしてそれらが一体となったところに人間の身体というイメージが現れるのだが、この短編がこのような構造になっているのは決して偶然ではない。それはピンチョンが、開放系でありながらエントロピーを減少させ得る生命の機構の中に、エントロピーの増大に対処する可能性の象徴を見ていたからではないだろうか。 最後に、本論の中で後に考察するとして保留してきた問題について議論しておかなければならない。具体的に言えば、この作品のメタフィクションとしての側面だ。つまり作品が、この作品自体と小説の問題に言及するメタ言語になっているという点である。この作品のテクストを一つの系と考える。すると、例えば、エピグラフとしてヘンリ・ミラーの小説からの一節が引用されるのは、この作品が外部のテクストを取り込んでいる開放系であるということを象徴することになる。そして実際にこの作品には、ヘンリー・アダムズ、ノバート・ウィーナー、フォークナー、デュナ・バーンズ等のテクスト中の理論やイメージが随所に取り込まれている。また別の側面から見ると、ソールの理論によれば、例えば、“love” といった曖昧な表現は一種の「ノイズ」であり情報のエントロピーを増大させる要因となってしまうが、このテクストにはそのような曖昧な表現が至る所に取り込まれている。先に分析したように相矛盾する解釈が可能なソールとマリガンの会話の箇所もその一例に過ぎない。またこの作品では全体を通して「エントロピー」の概念が隠喩として用いられているが、まず隠喩という技法そのものが曖昧性を生み出す要因になってしまう。つまり「エントロピー」という隠喩を作品のどの箇所に結びつけどのような解釈をするかはかなりの部分が読者の恣意的な読みに委ねられてしまうからだ。更に「エントロピー」の概念それ自体が既に、熱力学から情報理論、さらには文化論に至るまで様々な分野に応用され得る多義的な概念であり、「エントロピー」という隠喩はテクストのそれぞれの箇所で異なった意味の隠喩として機能するため、テクストを一つの意味・解釈へと収束してはくれないのだ。このような意味で、このテクストは開放系であると同時にエントロピーがかなり高いテクストだと言うことが出来る。そしてそれは恐らく作者の意図的な操作によるものだ。先にも述べたように、情報はエントロピーが増大するにつれ曖昧になるが情報量は増えて行く。一義的な情報は情報量が少ない。「きまり文句」は殆ど意味のある情報を伝え得ないのだ。ソールがコミュニケーションの回路から曖昧な表現を締め出そうとして、結局沈黙という伝達不能の状況に陥ってしまうのはまさにこのことを暗示している。それに対して意味のある情報を伝えようとするならば、因習的な言葉の組み合わせの規則を犯し、これまで使われなかったような言葉やイメージの組み合わせを模索しなければならない。つまり言語のエントロピーを増大させざるを得ない。ピンチョンはテクストのエントロピーを増大させることによって読者に意味のある新しい情報を伝達しようとしているのだ。然し、デューク・ディ・アンジェリスの無音の演奏によって暗示されるように、エントロピーが増大して意味が曖昧になり、解釈不能の状態になってしまうと、矢張り情報は伝わらなくなってしまう。そしてそれにを防ぐためにはエントロピーを減少させる努力が必要になる。このように考えてくると、この問題に関しても先に述べた方法が一つの可能な対処法であることが分かる。つまり、テクストは開放系でなければならないが、同時にその結果増大するエントロピーを減少させる努力をしなければならないということだ。そしてピンチョンは実際に、例えば、フーガの対位法に倣ってテクストを構造化することによって、テクストに組織性をあたえエントロピーを減少させようとしている。こうして彼はテクストのエントロピーのバランスを取りながら作品を書こうとしているのだ。そしてそれは彼の作品全体を通して言えることでもある。その意味でこの作品はピンチョンの小説全体のイントロダクションをなしていると言えるのかもしれない。そしてそのバランスは、ソールとデューク・ディ・アンジェリス、カリストーの部屋とマリガンの部屋の中間にるということが暗示されているのかも知れない。 さてこのようにこの作品はこの作品自体そして小説全般に関わる問題に言及するメタフィクションになっているのだが、もう一つこの作品が暗に言及している問題がある。それはテクストと読者の関係である。この問題については D-1 で、誤った綴りとそれを正しい綴りに読み変えて意味を読み取る読解のメカニズムを分析した所で既に指摘している。つまり、そこで読者は単語の綴り字の欠落を補い、過剰を削除してその意味を読み取るのだが、それは小説のテクストとそれを読み取ろうとする読者の間に働くメカニズムに言及するメタレベルのメッセージであるということだ。小説を解釈するとは、このまとめの最初の所で述べたように、余分な部分を切り捨て、必要な部分を補いながら、テクストを一つの首尾一貫した解釈に還元することだと言える。確かに、先程述べたように、このテクストはエントロピーの高いテクストであり、何らかの解釈をしようと思えばテクストのエントロピーを減少させてやらなければならないだろう。然し、そこにはカリストーやソールが陥ったような陥穽が待ち受けている。つまり首尾一貫した解釈をするためには「ノイズ」を排除しなければならないということだ。そしてそれはテクストから得られる情報量を制限してしまうことにもなる。我々はテクストを解釈するめにテクストのエントロピーを減少させなければならない。しかし減少させすぎると、テクストの潜在的な情報の多くの部分を取り逃がし、極僅かな情報しか得ることが出来なくなるだろう。 私はこのテクストの発するメッセージに従って、出来る限りテクストの発するメッセージを切り捨てることなく解釈を試みてきたつもりだ。だが解釈を示した以上、多かれ少なかれテクストの潜在的情報を切り捨ててきたはずだ。そこにも矢張りバランスと言うものがある。そして本論でそのバランスがうまく取れているのかどうかは、本論をお読みになってくれる方々の判断に委ねる他はない。 〔註〕 1) Thomas Pynchon, Slow Learner, Picador edition, (London: Pan Books,1985) ‘Entropy’was first published in the Kenyon Review, Spring, 1960. 2) Tony Tanner, City of Words, (London: Jonthan Cape, 1971) 3) Thomas Pynchon,‘Entropy’, Slow Learner, p.84. 以下テクストからの引用は括弧内に頁数で示す。 4) ‘Entropy’, p.89. 5) Judith Chambers, Thomas Pynchon, (New York: Twayne Publishers,1992) pp.24-5. 6) “Rathskeller”(Ratskeller)p.78, “hoorhouse”(whorehouse)p.88, 等 7) Henry Adams, The Education of Henry Adams, Modern Library, (New York: Random House, 1931), p.380. 8) The Education, p.377. 9) The Education, p.451. 10) The Education, p.389. 11) Nobert Wiener,『人間機械論』(The Human Use of Human Being )、(みすず書房、(1986), p.16 情報理論においての「エントロピー」という言葉は幾つかの意味で使われるが、この場合、ある表現が生じる確率について言う。「きまり文句」は生ずる確率が高いのでエントロピーが高い表現であると言える。 12) ここでの「エントロピー」という言葉は、言語がどの程度規則に縛られているかに関して言及する用法で用いている。つまり、言語が厳格な規則に縛られていれば「エントロピー」は低いと言うことになり、逆に規制から自由な場合「エントロピー」は高いということになる。この用法では「エントロピー」は 11) の註と全く反対の意味になる。つまりこの用法では「きまり文句」は「エントロピー」が低いと表現されることになるだろう。本論では主にこの意味で使用する。 13) 『人間機械論』、pp.37-8. 14) 『人間機械論』、p.99. SYNOPSIS “Entropy”as Metaphor: From Closed Circuit to Open Circuit ー Decoding Thomas Pynchon's Entropy ー Wataru Takahashi ‘Entropy’is one of Pynchon's early short stories which appeared in Kenyon Review in 1960. Tony Tanner refered to‘ Entropy’ in his famous book, City of Words, suggesting that the frequent use of the word “Entropy” in American contemoprary novels shows in itself the trend of American imagination today and analysing how this word functions as a metaphor representing the contemporary world. And since then many critics have often referred to ‘Entropy’ as, as it were, an introduction of Pynchon's following novels. Callisto, one of the main characters of this story, think that the conception of entropy can function as “an adequate metaphor to apply to certain phenomena in his world.” As he thinks, “entropy” seems to function as an useful metaphor to apply to the contemporary world, and, at the same time, to be a key-word to Pynchon's novels. The purpose of this paper is to consider the meanings of the metophor by analysing the text word by word. |