風の歌を聴け

「風の歌を聴け」 (村上春樹)




この小説は語り手の「僕」が1970年の8月8日から26日の間に起こったことを物語ろうとしているという所から始まる。このいわば物語 の枠の中で「僕」はデレク・ハートフィールドという架空の作家に言及し、「文章を書くという作業は、とりもなおさず自分と自分をとり まく事物との距離を確認することである。必要なものは感性ではなく、ものさしだ」という言葉を引用する。そしてこの言葉はこの「風 の歌を聴け」の中で取られている文体上のストラテジーでもある。
 この物語の核になる出来事は、彼がつき合っていたガールフレンドが首吊り自殺をしたことである。このことが語られるのは物語の 半ばで、何気なく挿入され、しかも彼女は「仏文科の女の子」「3番目に寝た子」と名前すら語られない。さらに、彼女との関係は詳しく書かれ ることもなく、「当時の記録によれば、1969年の8月15日から翌年の4月3日までの間に、僕は358回の講義に出席し、54回の セックスを行い、6921本の煙草を吸ったことになる。」と、数値という「ものさし」で計られることになる。そして、6922本目の煙草を 吸っているときに彼女の死を知らされたと述べられる。彼女との関係は、少なくとも月に7回強のセックスをしていることを考えると、かなり親密であったことが推測できる。そして、彼女が死んだのは、恐らく1969年の4月3日であり、この物語が始まる4ヶ月ほど前 と言うことになる。しかし、この小説の中ではこの事件ははるか昔に起こったように距離を置いて語られている。 だがそのような物語の語り口とは裏腹に、彼女の死は「僕」に大きな影響を与えている。つまり、今まで親しくつき合っていた女性がある時突然自殺し、理由も全く分からない。これこれしかじかの状況を経て死に至ったというような論理的連続性は絶たれ、存在していたものがある時突然存在しなくなる。その間には埋めようのない亀裂が横たわっているのだ。「僕」がラジオのディスク・ジョッキーを聞く場面 で「ON」「OFF」という言葉が出てくるが、この言葉は象徴的だ。スイッチを入れればディスク・ジョッキーが語りかけてきて、切った瞬間にそれは消滅する。彼女の自殺が「僕」にもたらした世界観とはそういうものだ。時間はそして世界は因果律によってクロノロ ジカルに連続する、いわばアナログ的なものではなく、一瞬一瞬現れては消えて行くデジタルなものだという認識だ。そして人と人 の間にも埋めがたい亀裂が存在するという認識だ。
 「鼠」という友人が登場する。彼は学生運動が盛んだった60年代をともに生きた親友だ。60年代は、それがたとえ「共同幻想」であったとしても、学生たちが共通の観念・価値観を共有し得た時代だ。だが、それもプツっと消滅し、「鼠」は自分の「居場所」を失う。 60年代と70年代との間で歴史に亀裂が入り、学生たちは共通の価値観を失いバラバラになる。現代の世界とはそういうものだ。 断片の集積に過ぎず、全てのものが現れては消えて行き、その間には何の意味の繋がりもありはしない。そのような認識を「僕」は持たざるを得ないのだ。「双子の女の子」が「小指のない女の子」が彼の前に現れそして消えて行く。そしてそれ故「僕」は世界との間に距離を置こうとするのだ。何にコミットしようとそれはやがては消え去り、喪失感を残すだけなのだから。
 そしてこのような認識はこの小説の構造にも明確に反映されている。この小説は、不連続で細かな断片から構成され、時間的に連続した物語として語られるこ とはないのである。 この小説は、現代世界の一つの有り様を明確に示しているという点で優れた小説である。それが如何に悲観的なものであろうが、 私たちはそれをじっと見据えその中で生きていかなければならないのだから。