Thomas Pynchon: Low-lands ー 小説の可能性 ー 高橋 渡
[p.1] Low-lands は1960年 New World Writing (March 1960) 誌に掲載されたピンチョンの初期の短篇であり、後に、初期の短篇を集めた短篇集 Slow Learner(1985)1) に収められる ことになる。これらの短篇中、Entropy2) に関しては、Tony Tanner が City of Words3)で取り上げているのをはじめとして、屡々言及されるが、その他の短篇が正面から取り上げられることは稀である。批評家がこの Entropy に屡々言及するのは、この作品のタイトルであり、作品の重要なモチーフとなる「エントロピー」の概念が、後の長編小説を分析する上でも有効な理論を提供してくれるからだ。 今回、この Low-lands という比較的マイナーな短篇を取り上げるのは、この作品に、 後の長編小説の構造にも見られる、ピンチョンの方法論の原型を窺うことが出来る様に思われるからである。「小説の死」などということが言われる現代に於いて、小説の可能性は何処に求められるのか? Low-lands はこの問いに対するピンチョンの一つの解答ではなかったか。本論の趣旨は、Low-lands の構造分析を通して、小説の可能性を模索する中でピンチョンが獲得した小説の方法の原型を洗い出すことにある。 Low-lands は大きく3つの部分に分けることが出来る。第一の場面は、ロングアイランド湾を見下ろす崖の上にあるデニス・フランジ (Dennis Flange) の自宅の場面であり、 第二の場面は、ロングアイランドのゴミ廃棄場、第三の場面は、ゴミ廃棄場の地下にあるジプシ−の少女ネリッサ (Nerissa) の部屋である。これらの場面は、第二の場面、"sealevel" にあるゴミ廃棄場を中心にして、崖の上にあるフランジの家=上、ネリッサの部 屋=下、と上下方向のシンメトリーを形成している。そして主人公のフランジは、物語の進行につれて、第一の場面から第三の場面へ、つまり上から下へと下降をしてゆく。更にこれら3つの場面には、様々なエピソード・回想等の断片が組み込まれ、言わば、パスティーシュ的構造を形成している。まずは、これらの場面・断片を順次追いながら分析を進めて行くことにする。 第一の場面はフランジの家でフランジと彼の友人でゴミ収集人のロッコ・スクウォーチオーニ (Rocco Squarcione) が酒を飲んでいるシーンで始まる。フランジは勤め先の "Wasp and Winsome, Attorneys at Law" に電話をいれて仕事を休むことにする。一方、妻のシンディー (Cindy) はフランジが仕事を休み、昼から友達と酒を飲んでいることに 腹を立てている。我々はここで一つの二項対立を見出だすことが出来る。その一項はシンディーの側に属する「仮借なき合理性 ("relentless rationality")」(p.56)といったものである。この性質は、別の箇所で次の様に表現されている。
モンドリアンの絵とは、例えば、画面が直線によって明確に区切られ、それぞれの区画がはっきりとしたコントラストの色彩で色分けされているといった類の絵であり、フランジは、シンディーがその絵の如くに、「厳格で論理的 (“austere and logical")」であると感じているのである。この合理性・論理性とは、例えば、朝起きて定刻に仕事に行き、帰宅して...云々といった一般的な社会生活上、家庭生活上の秩序を厳格に守ろうとする杓子定規な態度のことである。又、フランジは法律関係の仕事に就いているが、この法律の仕事も、合理的・論理的世界に属することは言う迄もない。従って、フランジが仕事を休み、昼間から酒を飲み、シンディーに追い出されて家を出るのは、この合理的・論理的世界からの逸脱を意味することになる。この逸脱した世界が、合理的・論理的世界の対立項となる。この二項対立は例えば次の様に図式化出来るだろう。社会的規範に従う秩序ある世界/社会的規範から逸脱した混沌とした世界。 この二項対立は様々に変奏を奏でながら作品全体に響いている。この二項対立を幾つか別の表現で表してみる。現実的世界/幻想的世界、中心/周縁、エントロピーの低い状態/エントロピーの高い状態、高/低、等々。これらの二項対立の左項は、いずれも最初の図式の左項「社会的規範に従う秩序ある世界」に対応する。第一の二項対立は、最初の場面に描かれるシンディーの属するリアリスティックな世界に対して、ネリッサがフランジを地下の部屋に連れて行く場面が現実なのか夢なのかも判然としない幻想的世界であることを示す。第二の二項対立の左項は、シンディーの様に社会的規範に従い、社会の中心部で生活する者を表す。フランジの職業もこの項に属す。「法律」とは、社会秩序を維持し社会を中心へと収束させる機能を持つからである。又、彼の勤める法律事務所の名前に含まれる "Wasp" という語は、アメリカ社会の中心に位置する支配階級を表す語でもある。それに対し、ゴミ収集人のロッコ・スクウォーチオーニ、ゴミ廃棄場の管理人ボリングルック(Bolingbroke)、ジプシーのネリッサは社会の周縁に位置するものと考えることが出来るだろう。例えば、ゴミとは社会の外に排出されるべきものであり、それを扱う職業は矢張周縁的な職業と考えざるを得ないからだ。又、ロッコ・スクウォーチオーニは名前からしてイタリア系移民であると推測出来るが、“Wasp" に対してイタリア系移民は言う迄もなく社会の周縁に属す。更にジプシーは、昼間はゴミ廃棄場の地下に隠れ、夜間に活動すると描写される程に社会の周縁部に追いやられた存在と位置付けられている。三番目の二項対立は、規律に従う秩序ある状態に対する、規律から逸脱した混沌とした状態を表すが、この問題、そして又、ここでエントロピーという概念を用いた理由に関しては後に詳しく論じなければならない。最後の「高/低」という二項対立は、先にも述べたように、シンディーとの家庭生活の場であるフランジの家が高い場所に在るのに対して、ネリッサの部屋が低い所にあるということを示すものであるが、この構図は、一段階縮小された形で、フランジの家の内部にも存在する。最初の場面でフランジとロッコはシンディーに "You keep that weird crew down in the rumpus room." (p. 54) と「地下の娯楽室」("rumpus room")に追いやられているが、ここでも、階上にシンディー、階下にフランジとロッコという「高/低」の図式が見られるのである。そして、この「地下の娯楽室」からは無数のトンネルが地下に延びているが、それはネリッサの部屋の在る、ゴミ廃棄場から延びる地下のトンネルに対応している。便宜上、ここでは仮に、以上の二項対立の左側の項を Nomos の頭文字を取りN、右側の項を Chao の頭文字を取ってCと表すことにする。 さて、ここで話をもとの場面に戻し、分析を進めて行くことにする。階下では、フランジとロッコが、ロッコの好きなヴィバルディのヴァイオリン・コンチェルト6番『歓び』("Il Piacere") を聞きながら酒を飲んでいる。階上では腹を立てたシンディーが物を投げる気配がする。ここで彼らが聞いている音楽は、フランジがシンディーとの類似性を指摘するモンドリアンの絵画とは対照的である。 [p.3] モンドリアンの絵が幾何的・無機的なのに対し、ヴィバルディの音楽は、言わば、有機的と言うことが出来るだろう。従って、モンドリアンの絵がNとすればヴィバルディの音楽はCに属すと言える。 ここで、フランジの家を説明する断片的描写が挿入される。それによれば、彼の家は1920年代に聖公会 ("Episcopal") の牧師によって建てられた「イギリスの田舎屋風の 家」 ("English cottage")である。この牧師はいかにも20年代らしく、密輸を副業にしていた。フランジはこの家を次の様に描写している。
この家の建っている場所は、"this curious moss-thatched, almost organic mound" (p.54) とも描写される様に、極めて有機的である。又、家そのものもロマンティックで有機的であり、複雑で、言わば、カオスに満ちた構造となっている。フランジは、この場所に「臍の緒 ("an umbilical cord")」で結び付けられていると感じているが、この家が牧師の「ロマンティックな態度」によって生まれたものであるとすれば、この家を買い、そこに繋がれていると感じているフランジにも、矢張、ロマンティックなものを指向する性質があると考えざるを得ない。彼はこの場所を、ノエル・カワード(Noel Coward) 作のフランジの妻と同じ名前の女性を主人公とするレヴューの中の曲、"A Room with a View" に 因んで、"his womb with a view"(p.55)と呼ぶ。そしてこの曲をかつてはよくシンディーに唄って聞かせたと述べる。
As birds upon a tree, High above the mountains and sea ... (p.55) この曲の詞もロマンティックなものである。そしてかつてフランジはシンディーに対してもロマンティックな感情を抱いていたことが解る。然し、現在の彼らの生活の中では、その様な感情は最早成立し得ない。
そして、彼は、"... it was Cindy more than the house who was responsible."(p.55)と、その原因がシンディーにあると考えている。 この断片にも上述の二項対立の変奏を見ることが出来る。シンディー及び現在のシンディーとの生活はNに属す。一方、フランジの家はCに属す。この対立は次の様に表すことが出来るだろう。無機的/有機的、現実主義/ロマンティシズム、非生産的/生産的。この最後の二項対立は若干の説明を要する。彼の家及びそれが建っている場所は有機的であると述べられ、子宮 ("womb") というメタファーが与えられる。「子宮」とは、言わば、物を生み出す生産の場であるが、このように、混沌としたものの側に生産的イメージを付与している点は注目に値する。 次に挿入されるのは、フランジの精神分析医、ジェロニモ・ディアズ (Geronimo Diaz)を描写する断片である。そのジェロニモ・ディアズは次の様に描かれる。
このジェロニモがCに属することは言うまでもないが、フランジは、彼がそこに通っている理由を次の様に説明する。
ここでは、フランジが、先にも引用した、「仮借なき合理性」から逃れるために、ジェロニモの所に通っていることが明らかにされる。 フランジはこのジェロニモの他にもう一つ慰めを持っていると述べる。それは「海」(“the sea")である。彼は思春期前のある時に、「海は女だ」("the sea was a woman")(p.56)と聞くか読んだかしたことがあり、そのメタファーが彼を虜にして彼の将来にも影響を及ぼしたと述べる。彼が情報将校となって駆逐艦に乗り組むことになるのも、ロングアイランド湾を見下ろす家を買うのもその影響である。そしてジェロニモはフランジに、あらゆる生命は海中の原生動物から生まれ、又、我々の血液は海水が変化してできたものなのだから、海こそが我々全てにとっての真の母親のイメージなのだと指摘する。ここで「海」は生命を育む母親に譬えられ、生産的なイメージが付与される。 次に、フランジが従軍していた当時の回想が描写される。その回想に現われるのは、太平洋と、艦船に乗り組んだ若き日のフランジの姿であるが、彼の記憶には何らかのバイアスがかかり、彼の想像力によって歪められている。
ここで、彼の記憶が30度傾いているというのは、直接的には、波の為船が傾き彼の視界も30度傾いていたということであるが、同時に、彼の記憶にはバイアスがかかり歪みが生じていたという意味でもある。それ故、その記憶の中に現われるフランジの姿は、当時の彼の現実の姿ではなく、言わば、彼のドッペルゲンガーなのである。
彼の記憶を歪め、彼の姿をこのようにロマンティック船乗りに変形させているのは、彼の想像力の作用であろうが、その作用を引き起こす誘因となっているのは、彼の記憶の回路を現在に繋いでいる「海」であると考えることができるだろう。この問題に就いてはまた後に触れなければならない。 この断片の最後の部分にはシンディーとの結婚生活に関する次の様な描写がある。
「ジャクソン・ハイツ (Jackson Heights)」はシンディーが両親と一緒に住んでいる家であるが、そこから隔たっていることが、彼とシンディーとの関係にロマンティックな色合を添え、その関係を美化していることが窺える。ここでの空間的距離、又、記憶における時間的距離といった何らかの「距離」が介在することで、現実は理想化される。そして、その作用を引き起こしているのは、矢張、想像力であると考えられる。だがその想像力も現在の合理的で現実的な結婚生活の中では働く余地は無い。彼らの結婚生活は、若さを失い、中年の兆しを帯び始める。 ここで描写は元の場面に戻り、フランジの軍隊時代の部下、ピッグ・ボウダイン (Pig Bodine) が登場する。彼は、無許可で彼の乗り組んでいた掃海艇から抜け出し、駅の駐車場から車を盗んでフランジの家にやって来たのであった。ピッグも、軍の規律、法律を犯した者として、端的にCに属す。彼はフランジが休暇を取り、シンディーと結婚式を挙げた後、二人が新婚旅行に充てる予定だった期間、フランジを連れ出して二週間も飲み歩いた、シンディーにとっては見るのも厭な人物である。このピッグの登場でシンディーの怒りは極限に達し、彼女は三人を家から追い出す。ここ迄が第一の場面である。 次の場面の舞台となるのは、ロングアイランドのゴミ廃棄場 (“dump") である。ロッコとピッグとフランジは家を追い出されると、ロッコのトラックに乗って「ゴミ廃棄場」に行く。その「ゴミ廃棄場」 [p.6] の管理人はロッコの友人、ボリングブルック (“Bolingbroke")で、彼らはそこに泊めてもらうことにする。「ボリングブルック」とは、言う迄もなく、シェイクスピアの『リチャード二世』(Richard II)に登場する若き日の「ヘンリー四世」(Henry IV)の名前である。シェイクスピアの「ボリングブルック」が英国王であるとすれば、ここに登場するボリングブルックは、言わば、「ゴミ廃棄場」という社会の周縁に位置する王国の国王であると言うことが出来るだろう。 このように、この場面は冒頭から過去の文学作品への言及があるのだが、実はそれがこの場面全体の構造を暗示していることにやがて気付くことになる。その一つは、この場面には、この他にも過去の文学作品への言及を暗示する部分が在るということである。例えば、Scott Fitzgerald の The Great Gatsby(1926) に対する言及もその一つである。 The Great Gatsby の第二章には、「灰の谷」 ("a valley of ashes")4) と呼ばれる荒涼とした「ゴミ捨て場」("dumping ground")5) が描写されている。Low-lands の「ゴミ廃棄場」は、同じくロングアイランドを舞台とする The Great Gatsby のこの「ゴミ捨て場」を思い起させるばかりでなく、作品自体の関連性をも暗示している。ギャツビーは将校として従軍していた頃、良家の娘ディジー (Daisy) に恋をするが、前線に送られ、戻ってくると、彼女は既に富豪のトム・ブキャナン (Tom Buchanan) と結婚している。彼はデイジーと再会したいが為に、様々な仕事をして財を成し、デイジーの住むロングアイランドのイースト・エッグ (East Egg) とロングアイランド湾を挟んで対岸にあるウェスト・エッグ(West Egg) に豪邸を構える。そこはまたデイジーの又従兄であり、この物語の語り手でもある、ニック・キャラウェイ(Nick Carraway) の隣家でもある。このデイジーと いう女性はギャツビーにとって単なる一人の女性ではなく、彼の抱くロマンティックな夢を体現するもの (“the incarnation") として描かれている。この小説の最後の部分で、 語り手のニックは、ギャツビーのこの夢を次のように描写している。
And as I sat there brooding on the old, unknown world, I thought of Gatsby's wonder when he first picked out the green light at the end of Daisy's dock. He had come a long way to this blue lawn, and his dream must have seemed so close that he could hardly fail to grasp it. He did not know that it was already behind him, somewhere back in that vast obscurity beyond the city, where the dark fields of the republic rolled on under the night. 6 長い引用になってしまったが、この部分は The Great Gatsby という作品を理解する上で重要な箇所である。ギャツビーが抱いていた夢とは、アメリカ大陸を初めて目にした人たちが、その無限の可能性によって呼び起こされた壮大な夢にも似たものであった。だがギャツビーは、その夢が「既に彼 [p.7] の背後にある ("it was already behind him")」つまり、それが現在には最早存在し得ない過去のものであることに気付いていない。むしろ、彼は"'Can't repeat the past?' he cried incredulously. Why of course you can!'"7) と言うように、過去は繰り返せると考えているのである。そして彼の悲劇はまさにその様な認識から引き起こされるのである。 一方、Low-lands では、フランジの想像力は厳格で合理的な現実の中では働く余地がなく、矢張過去へと向っている。1920年代に建てられた家、洋上で過ごした過去の軍隊生活、後に出てくる1930年代にテロリスト・グループによって掘られた地下のトンネル、ジプシーという、言わば、過去の民族、等である。また Low-lands に登場する「ゴミ廃棄場」は円錐形に掘られており、ゴミは古いものから順次上に積み重ねられてゆく仕組みになっている。この仕組みは当然のことながら、地層と同じく、下へ降れば降るほど古い層へと行き着くという構造を取る。フランジ達はトラックでこの円錐を螺旋状に下って行くが、この空間的な運動は、同時に、過去へと遡る時間的運動ともなる。冒頭で述べたように、フランジは、物語の進行につれ、崖の上の家から「ゴミ廃棄場」の地下にあるジプシーの少女ネリッサの部屋へと、上から下へ下って行くが、この運動も矢張空間的な運動であるとともに時間的な運動であることが暗示される。このように、ギャツビーの夢とフランジの想像力はともに過去に存在していたものに依存している。The Great Gatsby への言及はこうして作品の内容にまで及んでいるのである。 ここで、The Great Gatsby への言及に関連し、もう一つの過去の文学作品への言及に就いて述べておかなければならない。その作品とは T.S. Eliot の The Waste Land である。The Great Gatsby に出てくる「灰の谷」は、或る箇所で、"the waste land"8)と呼ばれているが、これは明らかに Eliot のThe Waste Land への言及である。そして、The Waste Land が「荒地」と化した20世紀の世界を象徴しているように、「灰の谷」も荒 廃した現代世界を象徴している。こうして、Low-lands の「ゴミ廃棄場」は、The Great Gatsby の「灰の谷」(或いは、「ゴミ捨て場」)を経由して、Eliot の「荒地」へと繋がっているのである。現代の消費文明を象徴するものとして、この「ゴミ廃棄場」は極めて適切なメタファーと言うことが出来るだろう。 "Low-lands" とは、テクスト中でも述べられているように、本来、スコットランドの低地地方のことであるが、フランジはそれを「ゴミ廃棄場」と結びつける。つまりこの作品のタイトルになっている"Low-lands" とはこの「ゴミ廃棄場」を指すのである。そして 上述したように、この「ゴミ廃棄場」(="Low-lands")が The Waste Land に言及していることを考え合わせれば、この作品のタイトル "Low-lands" は、"The Waste Land" というタイトルを捩ったものであると考えることが出来るだろう。このように、Low-lands は既にそのタイトルに、The Waste Land への言及が暗示されているのである。タイトルと は、或る意味で、作品全体を象徴するものであり、そのタイトルが既に他の作品に言及しているのだとすれば、その繋がりは作品全体に関わるものと推測される。この推測は、後に具体的に指摘するが、この後もテクスト中の幾つかの重要な箇所で The Waste Land への言及が見られるという事実によっても裏付けられる。 その繋がりの一つとして、この Low-lands に描かれる世界に The Waste Land の「荒地」のイメージが重ね合わされるという点を挙げることが出来るだろうが、問題はそれにとどまらない。Low-lands は The Waste Land を含む過去の文学作品に言及し、言わば、それらを下敷きにして書かれているが、この様な創作の方法自体が、実は、The Waste Land の方法論を援用したものであることに気付かざるを得ない。 さて、ここで再び「ゴミ廃棄場」そのものに目を向けてみよう。先にも述べたように、この「ゴミ [p.8] 廃棄場」は円錐形をしており、その中心に向って螺旋状に道が切ってある。この構造は我々にダンテの『神曲』に描かれる「地獄」を想起させる。ダンテは「地獄」で死者達に出会うが、我々はこの「ゴミ廃棄場」で過去の文学作品に出会う。そして又、ダンテはベアトリーチェに導かれて「天国」に行くが、フランジを幻想的な世界に導くネリッサはこのベアトリーチェの姿に重ね合わせることが出来るだろう。ところで、「ゴミ廃棄場」とは、言わば、機能を失い捨てられた過去の物を集積する場所であるが、この『神曲』への言及や The Waste Land との関連を考える時、或る象徴的な意味を帯びてくる。つまり、「機能を失い捨てられた過去の物」としての「ゴミ」は、過去の文学作品を象徴するのではないかということである。ギャツビーのロマンティシズムが既に過去のものとなり機能し得ないように、過去の文学作品とそこに流れる観念や思想も現代の状況の中では最早機能し得ないのかもしれない。例えば、現代に『神曲』の様な作品を書いたとしても、恐らく意味を持ち得ないであろう。こうして、この「ゴミ廃棄場」は「過去の文学作品の集積する場所」というメタファーを帯びるのである。然し、この過去の文学作品というゴミはリサイクルし得る可能性をはらんでいる。フランジ達はゴミの山からマットレスを拾ってきてそれをベッドとして利用するが、それはここに廃棄されたゴミの再利用が可能であることを暗示している。そして、実際に、この過去の文学作品という「ゴミ」は、Low-lands という現代的なテクストの新しい文脈の中で再利用され、言わば、新しい生命を付与されるのである。 「ゴミ廃棄場」の象徴的意味に就いて、ここでもう一つ考えておかなければならないことがある。それは「エントロピー」(entropy) の法則に関わる。この「エントロピー」の問題は、冒頭で言及した Entropy という短篇の中心的なテーマであると同時に、The Crying of Lot 49 9)で直接言及されるほか、ピンチョンの小説全体を考えてみても重要 なモチーフになっている。そして、この Low-lands に於いても「エントロピー」という 概念は極めて重要な機能を果たしているのである。具体的な議論に入る前に、まず「エントロピー」の概念に就いて簡単に説明しておかなければならない。ここでは取り合えず、David Seed の批評 The Fictional Labyrinths of Thomas Pynchon10) に倣い Webster's New Third International Dictionary の定義を挙げておく。
2. in statistical mechanics: a factor or quantity that is a function of the physical state of a mechanical system ... 3. in communication theory: a measure of the efficiency of a system (as a code or a language) in transmitting information... 3. the ultimate state reached in the degradation of the matter and energy of the universe; state of inert uniformity of component elements; absence of form, pattern, hierarchy, or differentiation... 最初に「エントロピー」という概念が現われるのは定義1の熱力学の分野で、熱力学の第2法則に「エントロピー」という概念が用いられる。この熱力学の第二法則を極簡単に説明すると、熱エネルギーは非可逆的に高い所から低い所に流れ、やがて平衡状態に陥るということである。その際、或る「系」の内部に温度の高い所と低い所が在る場合には、そこに運動が生ずる訳であるが、平衡状態では一切の動きは停止してしまう。この様に均質な平衡状態へと非可逆的に向う過程を、「エントロピー [p.9] が増大する」という表現で表す。宇宙という系の中でも、エントロピーは不可逆的に増大し続け、やがては宇宙も完全な平衡状態に陥り、エネルギーの動きが停止してしまう。この状態を「熱死」(heat death) と呼ぶ。このように、「エントロピー」という概念は当初熱力学の分野で用いられたものであるが、その後、上の定義にある「統計力学」や「情報理論」をはじめとして、様々な分野で用いられるようになる。上に挙げた定義4は「エントロピー」の包括的な定義である。つまり、「エントロピー」とは、言わば、階層構造・組織性・秩序といったものの崩壊・不在を表す単位と定義出来る。 さて、この「エントロピー」という概念は、エネルギー資源や物質資源を浪費する現代文明を説明する際にもよく用いられる。石油等のエネルギー資源は、燃やされて、熱となって発散し、また、物質資源も有用性を失い、役に立たぬ、単に廃棄物・ゴミと呼ばれる均質な物になってしまう。こうして、現代文明はエントロピーを急速に増加させてきたのである。ここで、Low-lands に話を戻すと、「ゴミ廃棄場」とは極めてエントロピーが高い場所であると言うことが出来るだろう。実は、この作品でエントロピーに関わる問題が重要なモチーフになっていることは、この部分のみではなく、既に作品の冒頭から暗示されているのである。先の作品分析の過程で、この作品には、秩序/混沌(N/C)という二項対立があり、フランジは、NからCへと動くという構造になっていると指摘したが、この「NからCへ」という動きは、とりもなおさず、エントロピーの増大過程であると言うことが出来る。 このように「エントロピー」の概念はこの作品全体の構造に深く関わってくるのだが、その関連の中で最も重要な意味を持つのは、上に挙げた定義2の「情報理論」で用いられる「エントロピー」の概念である。この概念を正確に説明しようとすれば、確立論等を援用してかなり詳細な議論が必要となるが、ここでは単純化した形で説明しておくことにする。つまりこういうことだ ー 情報のエントロピーが増大すればする程、その情報は曖昧になるが、潜在的情報量は増加する。ところで、この Low-lands という短篇に就いて考えてみると、このテクストはかなりエントロピーの高いテクストであると言わざるを得ない。これまでテクストを構成する断片を順次分析してきたが、例えば、フランジの過去を描写する断片などは、極めてメタフォリカルで、読者に様々な意味を暗示する。それらの描写は、単一な解釈を与え得ないという意味で曖昧であるが、読者に様々な意味を暗示するという意味で潜在的情報を多量に含んでいる。またテクストの進行に即して言うならば、第一のフランジの家の場面は、比較的リアリスティックな描写で、テクストのエントロピーは比較的低いと言える。ところが、第二の場面、つまり、今扱っている「ゴミ廃棄場」の場面になると、描写はメタフォリカルになり、テクストのエントロピーは増大する。そして更に第三の場面になると、夢なのか現実なのかも明確でない、エントロピーの極めて高い描写になる。このようにテクストの進行に連れテクストのエントロピーは次第に増加して行くのである。先に述べたように、この小説は、物語りのレベルでもエントロピーは増加して行くのだが、言わば、テクストの言語というメタレベルに於いても、エントロピーの増大を見ることが出来るのである。 ここで再び話をもとの場面に戻そう。フランジ達はロッコのトラックで円錐状の「ゴミ廃棄場」の底へと螺旋状に下って行く。その場所はフランジに再び海軍時代のことを思い起こさせる。彼の乗り組んでいた艦艇にデルガード(Delgado)というフィリピン人がいてよくバラッドを唄ったという。そのバラッドの中にフランジが好きだった曲があって、そこに "Low-lands" という言葉が出て来る。フランジはそれを思い出しながら、彼の連想 の中で、「ゴミ廃棄場」と "Low-lands" と「海」とを [p.10] 結びつける。この「ゴミ廃棄場」 と"Low-lands" との連想がこの作品のタイトルに結びついたことは先にも触れたが、ここでは「ゴミ廃棄場」と「海」との連想に就いて若干の考察を加えておきたい。「海」のイメージは作品中に頻繁に登場する重要なイメージである。先に加えた分析で「海」がCに属すことは既に述べたが、この「ゴミ廃棄場」と「海」との連想は、「エントロピー」の概念を用いて説明すれば、より明確になるかもしれない。つまり、「ゴミ廃棄場」がエントロピーの高い場所であるということは既に指摘したが、均質な海水からなる「海」も矢張エントロピーの高い場所であると言うことが出来るだろう、ということだ。更に、視覚的に考えても、一面に均質に広がるゴミの風景は、十分に「海」を連想させるものだと言えるだろう。 彼らを降ろした後、ロッコはトラックで帰ってしまう。フランジとピッグはマットレスを拾ってから、ボリングブルックの小屋に落ち着く。そこで彼らは「海の話」("sea stories" p.66) を始める。ピッグの話はいかにも海の男の話といった冒険譚である。一方、フランジは「海の話」とは全く関係の無い話を始める。彼はその理由を問い質されると、ただ思いつかなかっただけだと答えるが、真の理由は次の様なものであった。
この引用の後半部分の「原子より小さな粒子を観察する者は、その観察するという行為によって、その粒子の作用、データ、確率を変えてしまう。」というのは、ハイゼンベルグの「不確定性原理」 (uncertainty principle) に言及したものである。ここでは、詳細に論ずる余裕は無いので、極簡単に説明を加えておく。まず、公式をあげる。x・p = h、x は粒子の位置の不確定性、p は粒子のエネルギーの不確定性、h はプーランク定数という定数である。この公式は粒子の位置の不確定性と、エネルギー(方向を含む)の不確定性が反比例することを表している。例えば、粒子の位置が確定される時、x = 0 となる。この場合は、p = ∞ となって粒子のエネルギーは全く確定不能となる。逆に、粒子のエネルギーを確定しようとすると、p = 0、x = ∞ となって、位置は確定不能となる。実際に素粒子を観察する場合、素粒子には波動性と粒子性の二つの性質があって、位置を観測する為に金属板等をおき、その一点に素粒子が当り位置が確定した瞬間、それまで波動として存在していた素粒子は「粒子」となり、波動は消えてしまう。このように、位置を調べるという観察行為によって被観察物の様態が変化してしまうのである。「不確定性原理」とは簡単に言えば以上の様なものである。 この「不確定性原理」を考慮に入れながら、引用前半のフランジの説明を解釈してみよう。フランジの言おうとしているのは、要するに、自分自身に深く関わる問題に就いて語ろうとすると、その問題が歪められてしまうと言うことだ。「語る」という行為は、言わば、その対象に解釈を加え、或る視点からそれを秩序立てて脈絡を与えるという行為に他ならない。本来は混沌とした想念に秩序・形 [p.11] が与えられる。そして、そうすることによって、その想念は他者に理解可能なものになる。だが、こうして秩序・形を与えられた想念は本来とは異質なものと言わざるを得ないだろう。このようなことをフランジは言いたかったのではないだろうか。 上の引用部分は以上のように説明することが可能である。然し、一つ疑問が残る。つまり、この部分は物語の展開上それ程重要な役割を果たしている訳ではない。それにも関わらず、何故、「不確定性原理」という難解な概念を援用し意味の不明瞭な議論を展開しなければならないのか、という疑問である。この部分は、その難解性によって、読者が抵抗なく読み進むことを阻む。言わば、「前景化」されているのである。我々はその意味を考えてみなければならないだろう。 先にも述べたように、この部分は物語の展開上はそれ程重要な役割を果たしているとは思われない。然し、Low-lands のテクストそのものの構造を考えてみると、この部分が暗示する問題は重要な意味を帯びてくるように思われる。既に分析したように、このテクストはエントロピーの高いテクストである。つまり、伝統的な小説に比べ、秩序・形・脈絡といったものが欠如している。そしてその結果、このテクストは様々な解釈を暗示し、一つの明確な解釈を加えることは困難である。言わば、このテクストは「不確定性」を伴うように書かれているのである。現に今分析しているこの部分に就いても、このことは言えるだろう。この小説は、確かに、既に「語られて」いる。然し、秩序・形・脈絡を与えることは注意深く差し控えられているのである。このように、この部分はこの小説の構造・方法に対する言及としてとらえることが出来るだろう。 彼らは「海の話」を終え就寝し、ここで第二の場面が終わり、第三の場面が始まる。フランジは暫く寝た後、「アングロ」(“Anglo") という呼び声に目を覚ます。彼はそれが自分を呼ぶ声だと考える。
フランジは、呼び掛けられているのは現実の自分ではなく、むしろ、海軍時代の、彼の想像力のフィルターを通した世界に住む、彼の「ドッペルゲンガー」なのだと考える。ここに於いて、世界は彼の想像力の世界へと変成し、その世界の中で、彼は現実の自分からこの「ドッペルゲンガー」へと変身を遂げることが暗示される。彼は外へ出て、この呼び声を発したジプシーの少女について行くが、途中タイヤの山の間を通り抜ける時、タイヤが彼の上に落下し、彼は気を失う。彼が意識を取り戻して目を開けると、そこには、次の様な幻想的光景が現われる。
彼女は美しく「夢」の様な存在として描かれる。しかも、身長は「3フィート半」つまり約1メートル程度しかない。この少女の描写に代表されるように、この場面は全体的に非現実的・幻想的なものになっている。少女の名前は「ネリッサ」("Nerissa") と言うが、これはシェイクスピアの『ベニスの商人』(The Merchant of Venice) に登場する、「ポーシャ」(“Portia") の侍女の名前である。 ゴミの山の冷蔵庫を蓋を開けると、そこは地下に通ずるトンネルになっていて、二人はそこを通ってネリサの部屋に辿り着く。この場面は明らかに『不思議の国のアリス』(Alice's Adventures in Wonderland) を思い起させる。この場面も、アリスの「不思議の国」の様に、地下に広がるファンタジックな世界なのだから。又、このトンネルは、先にも触れたが、1930年代に "the Sons of Red Apocalypse"(p.73) と呼ばれるテロリスト・グループによって造られたものであり、地上の政治的ヒエラルキーから逸脱した文字どおりのアンダー・グラウンドな世界である。フランジにとってもこの地下の世界は、エントロピーの低い地上の規則だった秩序から逃れ、想像力を思うままに働かせ得る場所であろう。そしてここではテクスト自体のエントピローも増大し、我々読者も様々な想像を働かせ得る場所になっている。 ネリッサの部屋で展開する場面は極めて幻想的で曖昧である。そして全体的に Eliot の The Waste Land への言及が見られる。この部屋に彼女は一匹の鼠を飼っているが、その名前は“Hyacinth" という。この "Hyacinth" とは、Eliot の The Waste Land に、豊穣・再生を象徴するものとして登場する。更に、フランジがネリッサに自分をここに連れてきた理由を尋ねると。彼女はこう答える。
The Waste Land には "Madame Sosostris" という年老いた占い師が登場 "Fear death by water"11)と水死を予言する場面があるが、うえの引用はこの場面を思い起こさせる。又その部分では、シェイクスピアの『嵐』(The Tempest) から“Those are pearls that were his eyes. Look!" という箇所が引用されている。この箇所をもう少し長く引用してみよう。
Full fathom five thy father lies, Of his bones are coral made: Those are pearls that were his eyes. Nothing of him that doth fade, But doth suffer a sea-change Into something rich and strange ... Sea-nymphs hourly ring his knell. Burthen. Ding-dong. Ariel. Hark! now I hear them [p.13] Ding-dong bell. 12) この部分は、妖精のエアリエルが、フェルディナンドに向かって、父アロンゾーは水死して、目は真珠になっていると歌いかける箇所である。そして、この引用部分は、明らかに第二の場面の終わりでフランジが眠りにつきながら考える場面に結びついている。
そして、Low-lands は次の様な描写で終る。
こうしてこの短篇は、これ迄もしばしば現れてきた「海」のイメージで締め括られる。 このように Low-lands の最後の場面は The Waste Land、そしてその中でも言及される The Tempest 等から様々なイメージを拾い上げてくる。だがそれらのイメージは一つ の解釈へと収束することはない。The Waste Land には、冬を経て春が訪れる様に、死を経ることによって始めて再生はもたさられ得るという、極めて逆説的な考え方が提示されているが、Low-lands に於いても、死と再生・豊穣という相対立するイメージが同時に現れる。例えば、先に挙げた“Hyacinth" は豊穣のイメージを持つし、又、「海」のイメージも既に述べたように、全ての生命を生み出した「母」という豊穣で生産的なイメージを与えられている。一方で、ここでは「水死」のイメージを見ることも出来る。つまり、フランジは現実の世界から逃避し、幻想の世界に溺れてしまうといった解釈も成り立つであろう。 ここでこの点に関する他の批評家の解釈を幾つか挙げておこう。Tony Tanner はこの最後の部分について、この作品は、"ending at an equivocal suspended moment which has a haunting beauty all its own."13) と、この問題に決着をつけることなく終えている。その他の批評家の見解を見ると、「幻想の世界に溺れてしまう」といった否定的な解釈が多いようである。その中で特に説得力を持つと思われるのは David Seed の解釈である。 彼は、フランジは最後の場面で自分自身の作り上げた幻想 ("his ownfantasy") に身を委ねてしまうと述べる。そしてこの作品の最大のアイロニ−は "The ending thus almosta mirror-image of the opening"14) と、最後は結局最初の場面へと戻ってゆくと述べる。その根拠として、彼は、無数のトンネルを持つフランジの家と、この地下の入り組んだトンネルを持つネリッサの部屋との構造上の共通性を指摘している。なるほど、フランジはシンディーと結婚する前、或いは結婚当初は明らかに彼女に対してロマンティックな思いを抱いており、先に指摘したように、彼の家もその思いに対応するロマンティックなものであった筈だ。しかし、現実の生活の中でやがてその思いも幻想にすぎなかったことが明らかになる。この最後の部分で、フランジは、
と述べるが、文脈上かなり唐突なこの描写は、シンディーとの生活が何も生み出すことの無い、非生産的なものであることを暗示している。そして、この直後にネリッサの所に留まることに同意する。つまり、フランジはネリッサとの生活が生産的なものとなること [p.14] を期待しているのである。然し、この場面は先にも述べたように幻想的な世界であり、この幻想がやがて現実の中で崩壊しないという保証は何処にも無い。むしろ、Seed が指摘する様に、フランジの家とネリッサの部屋にの構造的な共通点があることを考えれば、ネリッサとの生活もやがてシンディーとの生活を同じことになると考えた方がよいのかもしれない。 さて、テクストの分析はこの位にして、そろそろ纏めに取りかかるとする。まず、この「物語」は、フランジの視点に立てば、「仮借無き合理性」に縛られた非生産的な生活から逃れて、自由で生産的なものを追求する人物を描いた作品であるという解釈が出来るだろう。然し、その視点から離れ、もう少し客観的な視点に立てば、Seed の様な解釈が 成立する。フランジの家とネリッサの部屋が構造的共通性を持つというのは、明らかにピンチョンの意図的な操作と考えられるので、Seed の解釈はそれなりの妥当性を持つだろう。然し、それでは何故この作品では、例えば、「海」に執拗に生産的なイメージが与えられ続けて来たのか、そして、何故この最後の部分でも錯綜した曖昧なイメージが現れてくるのか。なるほど、Seed の結論には妥当な根拠を認めることが出来るが、それはあく までこの「物語」に秩序・脈絡を押し付け、過剰な部分を切り捨てることによってのみ成立し得た結論なのではないか。この作品は極めてエントロピーの高い言語で構築されており、そのエントロピーは作品の進展に従ってますます増大してゆく。それに一つの解釈を与えようとするのは、言わば、そのエントロピーを減少させようとする行為である。このように、ここには相反する力が働くのである。テクストの言語のエントロピーが増加するにつれ、我々はそこから多くのイメージを読み取ることが出来る。然しそれを解釈しようとすればますます多くのイメージを切り捨て、作品のエントロピーを減少させなければならなくなる。そしてこのパラドックスは「情報理論」におけるエントロピーのパラドックスに正確に対応する。つまり、情報のエントロピーが増加すればするほど、その情報は曖昧なものになるが、潜在的情報量は増加するのである。そしてそれは又、「不確定性原理」の「位置の不確定性」と「エネルギーの不確定性」の関係とも対応する。位置を観察するという行為は解釈行為のメタファーと考えることも出来る。或る作品を解釈するということは、その作品を、或る一定の静止した意味構造へと還元することに他ならない。だが、位置を観察した瞬間、つまり、作品に解釈を与えた瞬間に、波動性、つまり、作品の動き・エネルギーは消え、観察不可能となるのである。 従来の批評は、「物語」の解釈のみに目を向けていた。然し、これまでの分析で見たように、この作品は、小説の構造・方法といった問題に言及する、言わば、メタレベルの「情報」をも含んでいる。そして、作品の中で言及されたその「構造・方法」に沿ってテクストは構築される。この作品には、このように、ピンチョンの小説の方法論が提示されているのである。最後に、このピンチョンの小説の方法論をもう一度簡単に纏めておきたい。 価値観が相対化し、意味のヒエラルキーが崩壊したエントロピーの高い世界に如何に対応したらよいのか。Entropy に登場するカリストー(Callisto)は自室に「都市の混沌」("the city's chaos") から隔離された「温室」を作り、そこに閉じこもることによって増大するエントロピーに逆らおうとする。シンディーが規則正しい、秩序だった家庭生活を頑なに守ろうとするのも、恐らく、そのような理由からだろう。しかし、カリストーの試みは失敗し、シンディーとの生活は不毛なものとなる。ピンチョンは増大するエントロピーから、自らを隔離しようとはしない。むしろそれを逆手に取って利用しようとする。例えば、フランジ達がゴミとなったマットレスを再利用する様に、過去の作品というゴミを自由に再利用し、新しい文脈の中で再生させようとするのもその一つであろう。又、彼はテクストの言語のエントロピー増大させることによって、多量の情報を生産しようとする。然しそこ [p.15] には上述したようなパラドックスが含まれている。エントロピーが増加しすぎると、ジェロニモが精神分析に使う「エビングハウスの乱数表」("the Ebbinghous nonsense-syllable lists")の "ZAP. MOG. FUD. NAF. VOB" (P.56) という言葉の様に、言わば、完全な「熱死」状態に陥り、意味を取ることが不可能になってしまう。ピンチョンは、この意味の生産と意味の崩壊の際どいバランスの中で小説を書いてゆくことに、小説の可能性を見ていたのではないだろうか。そしてこの方法は後の長編にも受け継がれてゆくことになる。 もうひとつ、先にも述べたように、この作品では、エントロピーの高い小説とそれを読む読者との関係に就いても言及されている。自由にイメージを生み出そうとする小説の生産的エネルギーと、それを脈絡を与え一つの解釈を加えようとする読者とのパラドキシカルな関係である。そしてそれは同時に、エントロピーの高い現代の世界と、そこから何らかの意味を読み取ろうとする現代人との関係でもある。そしてこの問題は The Crying ofLot 49 や V. の主要なテーマともなる。このように。この作品には、ピンチョンの後の作品の方法論やテーマの原型とも言うべきものが隠されていたのである。 〈註〉 Low-lands からの引用は全て Slow Learner, Picador edition (London: Pan Books Ltd,1958) により、括弧内に頁数を示す。 1) Thomas Pynchon, Slow Learner, Picador edition (London: Pan Books Ltd, 1958) 2) Entropy, ibid. 3) Tonny Tanner, City of Words, (London: Jonathan Cape, 1971) 4) F. Scott Fitzgerald, The Great Gatsby (Penguin Books, 1975) p.29 5) Ibid. 6) Ibid., pp. 187-8 7) Ibid., p.117 8) Ibid., p.30 9) Thomas Pynchon, The Crying of Lot 49 (Bantam Books, 1978) 10) David Seed, The Fictional Labyrinths of Thomas Pynchon (The Macmillan Press Ltd, 1988) 11) T.S. Eliot, The Waste Land, Collected Poems (London: Faber and Faber, 1974) 12) The Burial of the Dead, l.55 13) Shakespeare, The Tempest, The New Shakespeare (Cambridge University Press, 1971) . , l.400-9 14) Tony Tanner, Thomas Pynchon (London and New York: Methen, 1982) P.32 ) The Fictional Labyrinths of Thomas Pynchon, p.35 SYNOPSIS Thomas Pynchon: Low-lands ── Possibility of the Novel Wataru Takahashi Low-lands is one of Pynchon's early short stories and appeared in New World Writing in 1960. Among these short stories, Entropy has been often referred to,because the conception of "entropy", which is an important motif of this story,gives a useful theoretical framework to analyze Pynchon's later works. It seems,however, other early short stories have rather been neglected. I will take up a rather minor short story, Low-lands, because I believe I canfind in this story the prototype of Pynchon's method of writing novels. Nowadays we sometimes come across the expression,“the death of the novel." Under thesecircumstances, where should we seek the possibility of making novels? I think I can find an answer to this question in Low-lands. In this paper, I would like to show the prototype of the method of writing novels Pynchon acquired as an answer to this question. |