A Painful Case のナラティブ構造 高橋 渡
[p.49] A Painful Case は Dubliners 中の11番目の短編であり、1905年5月8日までに執筆され、後に After the Race とともに Dubliners 中もっとも弱い作品として1906年8月に書き直されている。しかし、研究者や批評家の間でもこの作品に対する評価は高く、ジョイスの所謂「狡猾さ」('cunning')が遺憾なく発揮されている作品であると言えるだろう。Dubliners は当初リアリズムの作品と解釈され、その語りは現実を忠実に描写する語りであると考えられていたが、後に語りにおける「狡猾さ」が認められ、語りの分析がなされるようになる。実は A Painful Case は、一見そうは見えないのだが、詳細に分析すると実に計算された狡猾な語りを持つ作品であり、Dubliners の語りの特徴を端的に表している。本論ではこの作品の語りの構造を分析し、それがこの作品に与えている意味を考察すると同時に、それを通して Dubliners という作品の語りの特徴を示したいと思う。 まず書き出しの一文を見てみよう。
この一文はダフィー氏の視点から語られているが分かる。彼はチャペリゾットに住んでいるが、その理由はナレーターの解釈ではなく、"he wished"、"he found"となっていることからも分かるように、ダフィー氏自身が考えている理由だからである。ここでは、ナレーターはダフィー氏自身が考えている理由を報告しているに過ぎず、いわば、何ら偏りを持たぬ無色透明の報告者であるかのように見える。しかし、読者がもしダブリンの地理に関する知識を持っていれば、恐らくこのダフィー氏の理由付けには疑念を抱くであろう。当時も現在もこの地域は下層階級の人たちが住んでいる地域であり、治安もあまりよくはない。つまり一般的な見地からすればわざわざ選んで住むような地域ではないのである。彼は「ダブリンの他の郊外は全て卑しく、モダンで、気取っている」と述べているが、このチャペリゾッドだけが例外であって住むに値する場所であるとする理由はきわめて根拠に乏しく思われる。つまり、ナレーターは一見無色透明の報告者であるようなふりをしながら、少なくともダフィー氏の自分の行動や生活に対する認識や理由付けに疑念を投げかけるような描写を選択しているのである。ちなみに、論旨からは少しはずれるかも知れないが "Chapelizod" という地名は、この地に "Isolde" を祭る "Chapel" が建てられていたという言い伝えから来ており、この物語がダフィー氏とシニコー夫人の悲恋の物語であることを(おそらくはアイロニカルに)暗示している。 この一文の後しばらくは彼の部屋の描写が続く。彼の部屋は、装飾が全くなく、色彩も白と黒の僧坊を思わせるような部屋であり、彼の禁欲的な生活を暗示している。ただ、ベッドにかけてある [p.30] 毛布は "a black and scarlet rug"(p.107) と唯一それも鮮やかな「緋色」を含んでおり、彼の禁欲的な生活の背後に隠された情熱的なものを暗示しているように思われる。また、机の上には常に文房具が置かれ、引き出しにはハウプトマンの Michael Kramer の翻訳が入っている。彼は銀行の出納係を勤めているが、これらの描写によって禁欲的な生活を営む知識人であることが示される。そして本棚は彼の几帳面な性格を暗示するかのように本が下の棚から大きい順に並べられていて、一番下の棚の端にはワーズワース全集が、そして一番上の棚の端には「『メイヌース教理問答書』(2) がノートの布のカバーに綴じ込まれて」("Maynooth Catechism, sewn into the cloth cover of a notebook." p.108)」置いてある。この部分で特に目を引くのは、『メイヌース教理問答書』というカトリックの本が、それもタイトルを隠すかのようにノートの布のカバーに綴じ込まれて本棚に置かれている点である。この時点では読者は取り立てて気にとめることもないかも知れない。しかし後に、例えば、
と、彼が信仰を持たず、世間の慣習にも従わない進歩的な知識人であることを自認していることが分かると、にわかに読者に疑念を投げかけてくる。つまり、信仰を持たない彼がどうしてカトリックの教理問答書を持っているのか、そしてそれがどうして何の本だか分からないようにノートの表紙に綴じ込まれているのか、という疑念である。この点を少し突き詰めて考えてみると、実はダフィー氏は自分のことを、信仰を持たず慣習にも従わない進歩的な知識人であると考えたがっているが、実はカトリックの信仰から解放されていないのではないかという疑念が湧いてくるのである。さらに、そのような疑念を抱きつつ上の引用を見ると、彼の世間的な付き合いはクリスマスの時と葬式の時だけ「古くからの威厳のために」("old dignity's sake") 親戚を訪ねると述べられているが、両者とも宗教的な儀式であることを考えれば、実は上述したように彼が『ユリシーズ』に出てくるスティーブン・デダラスのように、カトリシズムの信仰から解放されていないということを暴露しているように思われてくる。この引用は冒頭の一文と同じようにダフィー氏の視点から書かれていて、ナレーターは単なる報告者のように見える。だがナレーターは本棚にある本を何気なく描写することによって、ダフィー氏の考えを描写する文章に見られる説明が信頼し得ないものであることを明らかにしてしまうのだ。本棚の本を描写するナレーターの語りはここでも何気ない客観的な描写に見えながら実はダフィー氏の自己認識の欺瞞性を暴露しているのである。 こうして見てくると、この作品のナレーターの語りには二つの声が入り交じっていることが分かる。つまり、ナレーターがダフィー氏の声をそのまま報告している部分と、ナレーター自身の視点から説明する部分である。そして前者に関してはある仕掛けが施されている。次の引用を見てみよう。
ダフィー氏は自分を一歩引いたところから見つめ、それを心の中で三人称・過去形の文章にする「自伝癖」があると述べられている。ナレーターによって報告されるダフィー氏の声とはまさに彼が頭の中で書くこの三人称・過去形の自伝なのだ。少し後で彼の生活が、"・・・his life rolled out evenly − an adventureless tale."(p. 109) と「物語」("tale")に譬えられるのもそれ故なのである。このようにナレーターはダフィー氏の「自伝」を報告する一方、自らの視点からの観察を述べ、その「自伝」の欺瞞性を暴いてゆくのである。この作品はこの語りの構造を明確にした上で読み進める必要がある。さもなければ読者は容易にダフィー氏の自己正当化の言葉に欺かれることになるであろう。ただし、この二つの声は必ずしも明確に分割されているわけではなく、どちらの声なのか分からない部分がしばしば見受けられる。恐らくはこれもジョイスの戦略であり、どちらの声と取るかによって微妙に解釈に違いが出てきてしまう場合もあることに注意しておかなければならない。 ダフィー氏の禁欲的な「精神生活」("spiritual life")の中で唯一の気晴らしはオペラやコンサートに出かけることだと述べられる。 His liking for Mozart's music brought him sometimes to an opera or a concert: these were the only dissipations of his life. (p. 109) ここで注意しておきたいのは、この文章のシンタクスである。先に、彼の白と黒の部屋で唯一毛布に「緋色」が使われていて、それは禁欲的な聖職者を彷彿とさせるダフィー氏の内面に潜む情熱的なものを暗示すると述べたが、実は彼にそういった二面性が潜むことを暗示する描写はしばしば現れる。Garry M. Leonard はその二面性を精神分析の概念を用い「自我」と「超自我」という観点から分析しているが、(3) 少なくとも正確とは言い難い。彼の「自伝」による描写では少なくとも彼自身は自分の思想・人生観によって自分の生活を律していると考えているが、実はその情熱的な部分を抑えつけているのは、理性や彼の思想ではなくむしろ彼が解放されていないカトリシズムであるように思われる。先にも触れたように彼を描写する文章にはしばしば宗教的イメージが付与されているのもそれ故なのであり、また先の本棚の描写では、一番下の段に『ワーズワース全集』、一番上の段には『メイヌース教理問答書』が置かれていると述べられていたが、前者がコノートするのはロマンティックな感情とでも言うべきものであり、一方後者がコノートするのはカトリック的なものである。そのカトリック的なものが上にあるということは、それがその下にある感情的なものを抑圧していることを暗示するように思われる。そしてそれによって抑圧されなかったものがここで「彼の生活の唯一の気晴らし」と表象されているのだ。もし彼が自らの意志でオペラやコンサートに行くとすれば、それは少なくとも禁欲的な彼の生活信条を犯すことになってしまい、彼にとっては不本意なことになる筈だ。それ故、彼は自分の積極的な意志で行くのではなく、抑えきれない「彼のモーツァルトの音楽に対する愛好が彼をオペラやコンサートに連れて行く」と描写されるのである。従って、オペラやコンサートに行くという行為は、抑えきらない彼の感情的・情熱的な要素を象徴的に表しているということになる。ここでは既にコンサートで出会うシニコー夫人との関係に彼の感情的・情熱的な要素が含まれていると言うことが暗示されている。そして、シニコー夫人と出会う最初の場面は次のように描かれる。 [p.52] One evening he found himself sitting beside two ladies in the Rotunda. The house, thinly peopled and silent, gave distressing prophecy of failure. (p. 109) ここでも、彼は気づいてみるとロータンダというコンサートホールで二人の婦人の隣に座っていたのであり、出会いが意志の全く介在しない偶然のものであったことが強調される。そして、コンサートが彼の内なる情熱的なものを表象しているのだとすれば、このコンサートの失敗の前兆はシニコー夫人との関係がやがて破綻することを暗示することになる。また、シニコー夫人(Mrs. Sinico)の名前に "sin" という語が含まれるのは決して偶然ではないだろう。彼女との関係が彼にとって宗教的な「罪」にあたるということが暗示されているのだから。 彼らの関係はシニコー夫人が彼に話しかけるところから始まる。 ― What a pity there is such a poor house tonight! It's so hard on people to have to sing to empty benches. (p. 109) この部分はこの作品で唯一会話文が直接現れる箇所だ。後に新聞記事が直接引用される箇所を除いて全文がナレーターによる語りで描写されるこの作品において、この唯一の会話文は孤独なダフィー氏の孤独な生活に変化が訪れ、他者との対話が生まれる可能性を示しているが、この後会話文は二度と現れることはない。シニコー夫人の描写はなかなか微妙なものがあるが、少なくとも彼女にも或る二面性があることを示している。 Her face, which must have been handsome, had remained intelligent. It was an oval face with strongly marked features. The eyes were very dark blue and steady. Their gaze began with a defiant note, but was confused by what seemed a deliberate swoon of the pupil into the iris, revealing for an instant a temperament of great sensibility. The pupil reasserted itself quickly, this half-disclosed nature fell again under the reign of prudence, and her astrakhan jacket, moulding a bosom of a certain fulness, struck the note of defiance more definitely. (pp. 109-110) この描写を見ると、彼女にもダフィー氏に似た二面性があることが分かる。彼女は知的であり("intelligent")、自制心がある女性であるが("under the reign of prudence")、時としてその官能性が表に現れる。 "a deliberate swoon of the pupil into the iris" という表現はその官能性の現れと解釈することが出来るだろう。また、"a bosom of a certain fulness" とさりげなくその肉体性が描写されている。これらの描写は恐らくはナレーターの視点からの描写であろう。ダフィー氏は恐らくこれらの官能性・肉体性に気づいていた。だが、彼ならそれを素直には認めようとしないであろう。後に展開される二人の関係に対する彼の認識はこうした性的な要素を完全に排除しているからである。ここでこのようなナレーターによる分析がなされるのは、実はダフィー氏とシニコー夫人との関係にはこうした性的な要素があるということを暗示するためだと考えられる。また、シニコー夫人の夫は商船の船長でほとんど家を留守にしており、彼女は常に孤独である。こうしてみるとダフィー氏にとって彼女は完全な他者というよりも、自らの鏡像に近いものかも知れない。飾 [p.53] り気のない彼の部屋に鏡が掛けられていると描写されるのもダフィー氏のナルシス的な性格を暗示するものなのかも知れない。(4) ダフィー氏は二人の関係を純粋に知的な、人間同士の関係だと認識している。 Little by little he entangled his thoughts with hers. He lent her books, provided her with ideas, shared his intellectual life with her. She listened to all. (p. 110) しかし、ここでの描写でさえ、"he entangled his thoughts with hers" という表現には性的なものが暗示されているように思われる。そしてダフィー氏はシニコー夫人に彼の「自伝」を語ってゆくことになるが、ここでもまたカトリシズムのイメージが現れる。 With almost maternal solicitude she urged him to let his nature open to the full: she became his confessor. (p. 110) この部分はダフィー氏の「自伝」の一部であると考えられる。彼は彼女に母親のイメージを与え、二人の関係に告解のイメージを付与することによって、この関係の恋愛的・性的な側面を隠蔽してしまうのだ。だがナレーターはそうした恋愛的・性的な側面をさりげない描写で暴露してしまう。 Many times she allowed the dark to fall upon them, refraining from lighting the lamp. The dark discreet room, their isolation, the music that still vibrated in their ears united them. This union exalted him, wore away the rough edges of his character, emotionalized his mental life. Sometimes he caught himself listening to the sound of his own voice. He thought that in her eyes he would ascend to an angelical stature; and, as he attached the fervent nature of his companion more and more closely to him, he heard the strange impersonal voice which he recognized as his own, insisting on the soul's incurable loneliness. We cannot give ourselves, it said: we are our own. The end of these discourses was that one night, during which she had shown every sign of unusual excitement, Mrs Sinico caught up his hand passionately and pressed it to her cheek. (p. 111) 「音楽」("the music")とは先にも見たようにダフィー氏の感情的・情熱的側面を表すものであり、それが二人を「一つに結びつける」("united")。そしてその「結合」("union")は彼を「高揚」("exalted")させ、彼の精神生活を情緒的にしたと述べられる。ここで用いられている言葉は、二人の関係の恋愛的・性的側面を露わに表現することはないが、彼の性的な高揚感を巧みに暗示しているように思われる。しかし彼はシニコー夫人の「情熱的な性質」("the fervent nature of his companion")に怖じ気づき、彼女が彼の手を自分の頬に情熱的に押しつけ、二人の関係の恋愛的・性的側面が最早隠蔽しきれなくなると、関係を絶つことを決意する。ダフィー氏はその理由を、結局は「人間の魂は癒しが炊く孤独なもの」("the soul's incurable loneliness")であり、人間同士の魂の交流はあり得ないと考え、自分が求めていたシニコー夫人との関係はあくまで人間的で、知的な関係であって恋愛的・性的関係ではないと主張する。だが読者はこのダフィー氏が述べている理由に疑念を抱かざるを得ない。既に見てきたように二人の関係には当初から恋愛的・性的要素があ [p.54] り、ダフィー氏が如何に自己正当化しようとしても、彼が女性としてのシニコー夫人に惹きつけられていたことは否定し得ないからだ。先にも指摘したようにシニコー夫人("Sinico")の名前に「罪」("sin")という言葉が隠されているのは決して偶然ではないのだ。そしてナレーターはダフィー氏が常々机の中に入れた紙の束に書き込んだアフォリズムを引用する。 Love between man and man is impossible because there must not be sexual intercourse, and friendship between man and woman is impossible because there must be sexual intercourse. (p. 112) だが、このアフォリズムは何も真実を語ってくれない。このアフォリズムを逆に読めば、男女間には愛が成立するということであり、何故ダフィー氏がその愛を拒否するのかについては何も語られていないからだ。 それではその真の理由とは何なのであろうか?それは既にテクストに暗示されている。その最大の理由は恐らくカトリシズムだ。カトリシズムは人妻との恋愛的・性的関係を決して認めない。先にも見たようにダフィー氏は自分では認めてはいないが、カトリックの信仰から解放されてはいない。それ故、彼はシニコー夫人との関係が恋愛関係であることを認めるわけにもいかないし、彼女と性的な関係を持つ勇気は持ち得ないのだ。さらに憶測すれば、二人の関係を決して容認しないアイルランドの社会でその関係が発覚すれば、ダフィー氏の社会的生命はそこで絶たれることになってしまう可能性が高く、彼はそれを恐れる故に恋愛関係に踏み込むことが出来なかったのだと考えることもできる。我々は既にそのような状況を Dubliners の中で目撃している。例えば、The Boarding House のドーラン氏("Mr. Doran")の場合もそうだ。彼は下宿屋のむすめのポリーとある時ちょっとしたきっかけで肉体関係を結んでしまう。ドーラン氏がきちんと職業を持ち、小金を貯め込んでいるのを知っていた下宿屋の女将のムーニー夫人は、二人の関係に気づきながらしばらくは黙認し、折りを見計らってドーラン氏に娘との結婚を迫るのであった。ドーラン氏は結婚をしたくはなかったが彼女と結婚をする羽目になってしまう。ドーラン氏は若い娘と肉体関係を持っておきながら結婚を拒絶した場合手痛い社会的制裁を受けるのを熟知しているが故に自分の意志に反して結婚せざるを得ないのである。両者ともそのような社会的な束縛によって自己を抑圧しなければならないのである。 こうしてダフィー氏は二人の関係を絶ち、もとの規則的で平穏な生活に戻るが、四年後夕食の後読んだ新聞にシニコー夫人の事故死を報ずる記事を目にすることになる。この記事はそのままの形でテクストに引用され、その見出しの副題 "A Painful Case" がそのままこの作品のタイトルになっている。ダフィー氏はまずこの記事に対して嫌悪感を覚える。 The whole narrative of her death revolted him and it revolted him to think that he had ever spoken to her of what he held sacred. The threadbare phrases, the inane expressions of sympathy, the cautious words of a reporter won over to conceal the details of a commonplace vulgar death attacked his stomach. (p. 115) そして、どうやらアルコールに溺れ惨めな最後を遂げたシニコー夫人を厳しく非難する。 [p.55] Just God, what an end! Evidently she had been unfit to live, without any strength of purpose, an easy prey to habits, one of the wrecks on which civilization has been reared. But that she could have sunk so low! Was it possible he had deceived himself so utterly about her? He remembered her outburst of that night and interpreted it in a harsher sense than he had ever done. He had no difficulty now in approving of the course he had taken. (pp. 115-6) ダフィー氏が考えるように、確かにこの記事は世俗的なクリシェからなり、線路を渡って反対側のホーム行こうとしたシニコー夫人の偶発的な事故として扱い一見同情的に見えるが、その一方で彼女がアルコール中毒であったことをさりげなく暴露し非難するという卑劣さを持っているのである。そしてダフィー氏は彼女の死を彼女の堕落ときめつける。だが読者はここに引用されている記事の文体に、この作品の文体と共通するものを見るであろう。つまり、ナレーターは常に自己正当化を行っているダフィー氏の「自伝」を引用することによって一見ダフィー氏を肯定的に描いているように見せながら、巧みに自らの観察を差し挟むことによってその欺瞞性を暴露しているのであるから。もし、ダフィー氏がこの記事の文体の背後にシニコー夫人の堕落を読みとるとするなら、読者はこの作品の文体の背後にダフィー氏の堕落を読みとることになるだろう。実はこの記事はこの作品の文体の構造を暗示する自己言及的な機能も持っているのである。 だが、ダフィー氏は "As the light failed and his memory began to wander he thought her hand touched his." (p. 116) と、彼女の感触、記憶が甦るに連れだんだん落ち着かなくなってくる。そして彼は禁欲的な生活習慣を破ってパブに入って酒を飲む。この描写は彼が飲酒癖のついたシニコー夫人に同化してゆくことを暗示している。そして彼はここで初めてシニコー夫人に共感を覚える。 Now that she was gone he understood how lonely her life must have been, sitting night after night, alone in that room. His life would be lonely too until he, too, died, ceased to exist, became a memory - if anyone remembered him. (p. 116) 彼はシニコー夫人の孤独を認識し、自分もそれと同じ孤独を共有していることを感じ取るのだ。そして、さらに彼は、 .He walked through the bleak alleys where they had walked four years before. She seemed to be near him in the darkness. At moments he seemed to feel her voice touch his ear, her hand touch his. He stood still to listen. Why had he withheld life from her? Why had he sentenced her to death? He felt his moral nature falling to pieces. (p. 117) と彼女の肉体を身近に感じながら、自分の「道徳性」("moral nature")が崩れていくのを感じる。ここにいたって彼は自分が「人生の饗宴」("life's feast" p.117)から閉め出されてしまっていると感じ、絶望的なまでに孤独であることを悟ってこの物語は終わる。最後に近い場面でダフィー氏は、"He began to doubt the reality of what memory told him."(p. 117)と彼の記憶の信憑性を疑うが、記憶とは彼が頭の中で書いてきたあの三人称・過去形による「自伝」に他ならない。彼は自分の体験や考えたことを解釈・理由付けをしながら文章化し物語("tale")にする。この A Painful Case という物語自体、ナレーターによる観察を除けば、こうして文章化されたダフィー氏の物語 [p.56] なのだ。読者はナレーターのコメントによって既にこの彼の物語の信憑性に疑念を抱いてきたが、ここにいたってダフィー氏自身もそれを認めざるを得なくなるのである。 このようにこの作品では、巧みなナラティブ構造によって、一見ダフィー氏の悲劇を同情的に描いているように見せながら、その悲劇の原因がダフィー氏の内部に巣くう自己欺瞞であったことが暴露されて行くのである。 この作品の主人公であるダフィー氏は The Dead のゲイブリエル・コンロイとともに Dubliners の他の作品の主人公たちとは趣をことにしているように思われる。つまり、ジョイス自身がもしもアイルランドにとどまっていたらそうなっていたかも知れないような人物として描かれているということだ。ダフィー氏はジョイスと同様文学者を目指す知識人のようであるし、彼は一時期社会主義運動に興味を示すが、ジョイス自身もある時期社会主義運動に傾倒し、ダフィー氏が翻訳しているハウプトマンの Michael Kramer を1901年の夏に実際に翻訳している。ジョイス自身は彼の精神を抑圧するアイルランドを離れ生涯異国で執筆活動をしたが、ダフィー氏は極力社会との接触を排除することによって自己防衛をしようとしている。しかし、彼が破局を迎えるのは、彼が自らを欺きながら欲望を抑圧した結果であり、しかもそうせざるを得なかったのは彼が考えているように彼の主義や思想ではなく、彼の内部に今も根を下ろしているカトリシズムなのだ。「アイルランドの精神史」("moral history of Ireland")に見られる「麻痺」("paralysis")は彼の外部にあったのではなく、彼の内部に潜んでいたのである。読者はダフィー氏が最後に認識する「孤独」に絶望的なまでの不毛性を見ながらこの物語を閉じることになる。 〔註〕 1. A Painful Case からの引用は全て James Joyce, Dubliners, A Viking Compass Book (New York: The Viking Press, 1961)により、括弧内に頁数で示す。 2. Maynooth Catechism とは、正確には The Catechism Ordered by the National Synod of Maynooth (Dublin, 1883)であり、ダブリンの西約15キロのところにある、アイルランドのカトリックの中心的な神学校 The Royal College of St. Patrick at Maynooth で編纂された教理問答書。 3. Garry M. Leonard, 'Love in the Third Person in "A Painful Case"', Reading Dubiners Again: A Lacanian Perspective (Syracuse and New York, Syracuse University Press, 1993) 4. Cynthia D. Wheatley-Lovoy, 'The Rebirth of Tragedy: Nietzshe and Narcissus in "A Painful Case" and "The Dead", James Joyce Quartery, vol. 33, No.2, Winter 1996 この論文ではこの作品に見られる Narcissus のイメージに注目し、ダフィー氏のナルシシズムを分析している。 SYNOPSIS A Painful Case のナラティブ構造 Wataru Takahashi A Painful Case, the 11th story in Dubliners, was written by May 8, 1905. But Joyce considered this story and After the Race "weakest" in Dubliners, and revised them in August 1908. In spite of his estimation, this story is highly estimated by many critics and scholars. Anyway we can say that, in this story, Joyce gives full play to his "cunning." At the early stage of criticism, Dubliners was interpreted as a work of realism, and its narrative was regarded as that which represented reality faithfully. But recently critics and scholars recognized this "cunning" in the narrative of Dubliners, and began to analyze the cunning narrative ofDubliners. The narrative of A Painful Case doesn't seem cunning at a glance, but on close analysis we can find it has a very calculated and cunning narrative structure. And it shows a feature of the narrative of Dubliners. The purpose of this paper is to analyze the narrative structure of A Painful Case, and to show a typical characteristic of the narrative of Dubliners. |