
(Martello Tower: The scene of this episode)
* 現在この塔は JAMES JOYCE MUSIUM になっています。
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Stately, plump Buck Mulligan came from the stairhead, bearing a 1
bowl of lather on which a mirror and a razor lay crossed.
(訳)「厳かに、ぽっちゃりしたバック・マリガンが階段のてっぺんから石鹸の泡の入ったボールを持って降りてきた。その上には鏡と剃刀が十字に置かれていた。」
*‘Stately’ は形容詞。但し、‘plump’ が限定用法でマリガンの属性を表しているのに対して、これは主格補語であり、その時の一時的な状態を表す。円形のボールの上に十字に置かれているので、ケルト十字の形になっていることに注意。
(High Cross)
A yellow dressinggown, ungirdled, was sustained gently behind him on the mild
morning air.
(訳)「黄色い部屋着がはだけて、穏やかな朝の風に吹かれて、そっと後ろにたなびいた。」
He held the bowl aloft and intoned:
-- Introibo ad altare Dei.
(訳)「彼はボールを高く掲げ、唱えた。「我神の祭壇に上らん」
*‘Introibo ad altare Dei’ はラテン語で ‘I will go up to God’s alter.’ (Psalm 43.4)
Halted, he peered down the dark winding stairs and called outcoarsely:
-- Come up, Kinch! Come up, you fearful jesuit!
(訳)「彼は立ち止まり、暗い螺旋階段をじっと見下ろして、品のない声で怒鳴った。
「上がって来いよ、キンチ。上がって来い、この信心深いイエズス会士め。」
*‘fearful’ は「神を畏れる」「敬虔な」といった意味。
Solemnly he came forward and mounted the round gunrest.
(訳)「堂々とした態度で、彼は前へと進み、丸い砲台に上った。」
*‘round gunrest’ は「円形の砲台」。この舞台になっている Martello Tower は嘗ては要塞であったもので、大砲は既に撤去されているが、中央に丸い砲台が残っている。(上の写真を参照。)
He faced
about and blessed gravely thrice the tower, the surrounding land and the 10
awaking mountains. Then, catching sight of Stephen Dedalus, he bent
towards him and made rapid crosses in the air, gurgling in his throat and
shaking his head.
(訳)「彼はあたりを見回し、塔と回りの大地と目覚めかけている山々とに、真面目くさって三度十字を切った。それからスティーブン・デダラスが目にはいると、彼の方に屈み込んで、喉をがらがらいわせ頭を振りながら、空に素早く十字を切った。」
*このあたりはまあ問題はないでしょう。‘blessed’ というのは「祝福する」と訳してもいいでしょうが、実際の動作としては、十字を切るということです。
Stephen Dedalus, displeased and sleepy, leaned his arms
on the top of the staircase and looked coldly at the shaking gurgling face
that blessed him, equine in its length, and at the light untonsured hair,
grained and hued like pale oak.
(訳)「スティーブン・デダラスは眠くて不機嫌そうに腕を階段のてっぺんについて、自分を祝福する、首を振りながら、喉をがらがらいわせている馬面と、その白っぽい楢のような色合いの筋目の通った明るい剃髪していない髪を冷たく見た。」
*‘untonsured’(剃髪していない)とわざわざ言っているのは、彼が司祭の真似をしているので、司祭なら剃髪しているはずだが、そうなっていないから。「剃髪」っていうのは分かるでしょ?カトリックのお坊さんが河童みたいに頭のてっぺんを丸く剃っているやつです。‘oak’ は「楢」と訳しました。普通「樫」と訳されますが、いわゆる「樫」というのはイギリスやアイルランドには存在しません。‘grained’ は「木目が通った」という意味ですが、髪に筋目が通っていて木目のようなのでこう言っているわけです。
Buck Mulligan peeped an instant under the mirror and then covered
the bowl smartly.
(訳)「バック・マリガンはちらりと鏡の下を覗き込み、それからボールにパシっと被せた。」
-- Back to barracks! he said sternly.
He added in a preacher's tone: 20
-- For this, O dearly beloved, is the genuine christine: body and soul and
blood and ouns. Slow music, please. Shut your eyes, gents. One moment. A
little trouble about those white corpuscles. Silence, all.
(訳)「「兵舎に戻れ」と彼は厳しい口調で言った。それから司祭の声色で付け加えた。
「と申しますのも、みなさま、これこそ正真正銘の女キリストなのであります。肉体と魂、そして、槍の傷跡なのです。ゆっくりした音楽をお願いします。みなさま目を閉じて下さい。ちょいとお待ちを。この白血球どもに少しばかり問題が。みなさんお静かに。」
*‘christine’ とは ‘christ’ の女性形で、本来ここは ‘christ’ が来るべき所を女性形にしている。訳では「女キリスト」としておいた。その結果、マリガンが冒頭から演じているミサはいわゆる「黒ミサ」(Black Mass) になってしまう。‘ouns’ は ‘wounds’ だが、マリガンの実際の発音を再現するためにこのような綴りにしたと考えられる。白血球に問題がというのは、聖体拝領のパンとワインがキリストの肉体と血に変化する「化体」(transsubstantiation)を科学的にもじって言ったもの。
He peered sideways up and gave a long slow whistle of call, then
paused awhile in rapt attention, his even white teeth glistening here and
there with gold points. Chrysostomos. Two strong shrill whistles answered
through the calm.
(訳)「彼は流し目で上を見やり、長くゆっくりと口笛を吹いたけ、それからしばらくの間動作を止めて、うっとりとしたように聞き耳をたてた。彼の歯並びのいい歯がここかしこできらきらと金色に輝いた。黄金の口を持つ男。長く鋭い汽笛の音が静寂を貫いて答えた。」
*‘in rapt attention’ は「うっとりと注意を傾けて」といった意味。次の ‘his even white teeth glistening …’ は、文法的には一般に分詞構文と説明されるところですが、‘his teeth’ の前に ‘with’ を補っていわゆる付帯状況のようにとった方が分かりやすいかもしれません。ジョイスの場合、‘with’ を用いた付帯状況で表してもいいところでも、殆ど ‘with’ は付けられていません。
‘Chrisostomos’ はギリシャの表現で ‘golden-mouthed’ という意味。ギリシャの rhetorician ‘Dion Chrisostomos’ と ‘St. John Chrisostomos’ から来ているとのこと(Gifford)。ここで注意しなければならないのは、この ‘Chrisostomos’ はスティーブンが頭の中で考えたことだということです。「ユリシース」の前半の文体は一般に ‘Initial Style’ と呼ばれますが、この文体は、ナレーターによる客観的描写と、登場人物が考えていることを、例えば ‘he thought’ とか quotation markを付けないでそのまま引用する文体(一般に ‘Quoted Monologue’ と呼ばれます。以降、QM と略します)とから成っています。QM は普通不完全な文章であり、時制は、客観的な描写が過去形であるのに対し、現在形となっています。(もっとも、過去のことを思い出している場合などはこの限りではありません。)だいたいはこの基準で見分けがつきますが、時として判断が困難な場合もありますが、その問題についてはそのような箇所が出てきた時に指摘します。
‘Two strong shrill whistles’ は「汽笛」と訳しました。先程マリガンが口笛を吹いて、それに答えるように聞こえてくるので、「口笛」ととって仕舞いそうですが、スティーブンが口笛で答えたというのは文脈上不自然ですし、‘through the calm’ という表現はある程度距離が離れたところから聞こえてくる感じがします。Paul Van Caspel, Bloomers on the Liffey (The Johns Hopkins Univ. Press, 1986) や Introduction で紹介した、川口喬一「ユリシーズ演義」(研究社)でも指摘されていますが、実はこの挿話の82行目から85行目にかけて次のような描写があります。‘Leaning on it he looked down on the water and on the mailingboat clearing the harbourmouth of Kingstown. キングズタウンの港はマーテロタワーのすぐ近くにあり塔の上からよく見えます。(写真参照)ここでは郵便船が港の入り口から出て行くところが描写されますが、先程の ‘whistles’ とはこの郵便船が出航するときの汽笛だと推測されます。「ユリシーズ」には前に出てきたところを覚えていないと意味が取れない箇所が数多くありますが、逆に後にならないと意味が確定しない箇所もあるのです。これは、その時点では分からないので前者よりも厄介です。
(King's Town Harbour)
Thanks, old chap, he cried briskly. That will do nicely. Switch off the
current, will you?
(訳)「「ありがとよ。」と彼は元気よく大きな声で言った。「それで結構。電流を切ってくれないか。」」
*‘Switch off the current’ というのはちょっと問題です。直接的には「電流を切ってくれ」でいいのだと思いますが、問題は何の電流かということです。ミサが終わったから電灯を消してくれというのか、或いは、先程「ゆっくりした音楽をお願いします」といったのが蓄音機の音楽でそれを止めてくれといっているのか???
He skipped off the gunrest and looked gravely at his watcher, 30
gathering about his legs the loose folds of his gown. The plump shadowed
face and sullen oval jowl recalled a prelate, patron of arts in the middle
ages. A pleasant smile broke quietly over his lips.
(訳)「彼は砲台からポンと飛び降りると、部屋着のはだけた裾を足の周りにかき寄せながら、自分をじっと見つめる相手をまじめくさった顔で見た。ぽっちゃりした影になった顔と、不機嫌そうな楕円形の顎は、中世の芸術の擁護者であった高僧を思い出させた。楽しそうな微笑みがそっと彼の唇にひろがった。」
*‘jowl’ は ‘jaw’ または ‘cheek’。‘a prelate’ は Gifford によれば、教皇Alexander 6世(1431-1503)を示唆しているとのことです。
The mockery of it! he said gaily. Your absurd name, an ancient Greek!
(訳)「お笑いぐさだぜ」と彼は陽気に言った。「おまえのその馬鹿げた名前と来たら。まるで古代ギリシャ人だ。」
*「まるで古代ギリシャ人だ」というのは、主に Dedalus という名前が A Portrait of the Artist as a Young Man で明らかにされているように、ギリシャ神話の工匠でイカロスの父親である ‘Dedalus’ に由来するため。
He pointed his finger in friendly jest and went over to the parapet,
laughing to himself. Stephen Dedalus stepped up, followed him wearily
halfway and sat down on the edge of the gunrest, watching him still as he
propped his mirror on the parapet, dipped the brush in the bowl and
lathered cheeks and neck.
(訳)「彼は悪戯っぽく指さし、胸壁の所まで行って、一人笑った。スティ−ブン・デダラスは階段を上り、うんざりした様子で途中まで彼について行くと、砲台の端に腰を下ろして、彼が鏡を胸壁に立てかけてボールにブラシを浸し頬と首に石鹸の泡を付けるのをじっと見守った。」
*まあ問題はないでしょう。
Buck Mulligan's gay voice went on. 40
-- My name is absurd too: Malachi Mulligan, two dactyls. But it has a
Hellenic ring, hasn't it? Tripping and sunny like the buck himself. We must
go to Athens. Will you come if I can get the aunt to fork out twenty quid?
(訳)「バック・マリガンは陽気な声で続けた。「俺の名前もばかげているよな。マラカイ・マリガン。強弱弱格が二つときている。でもギリシャ的な響きがあるだろう?牡鹿(バック)そのものみたいに軽快で陽気だ。俺たちアテネに行かなくちゃいけないな。叔母から20ポンドまきあげたら一緒に行くか?」
*‘Buck Mulligan’ の ‘Buck’ は渾名でもともと「牡鹿」の意味。‘dactyl’ は「強弱弱格」で、確かに彼の名前は「強弱弱格ふたつ」からなっている。‘fork out’は「金をいやいや出す」という意味。だから直訳的には「叔母に金をいやいや出すようにさせる」。
He laid the brush aside and, laughing with delight, cried:
-- Will he come? The jejune jesuit!
Ceasing, he began to shave with care.
-- Tell me, Mulligan, Stephen said quietly.
-- Yes, my love?
-- How long is Haines going to stay in this tower?
(訳)「彼はブラシを脇において、嬉しそうに笑いながら言った。「やつは行くかなあ?尻の青いイエズス会士君は。」話をやめて彼は注意深く髭をそり始めた。「教えてくれマリガン」スティーブンは静かに言った。「うん、何だい」「ヘインズは何時までこの塔にいるつもりなんだろう。」
*‘Will he come? The jejune jesuit!’ の彼というのはもちろんスティーブンのこと。芝居がっかった言い方で態と3人称で言っている。‘jejune’ は ‘puerile’‘intellefctually unsatisfying’ (COD)‘jesuit’ と頭韻を踏ませている。
Buck Mulligan showed a shaven cheek over his right shoulder. 50
-- God, isn't he dreadful? he said frankly. A ponderous Saxon. He thinks
you're not a gentleman. God, these bloody English! Bursting with money
and indigestion. Because he comes from Oxford. You know, Dedalus, you
have the real Oxford manner. He can't make you out. O, my name for you
is the best: Kinch, the knifeblade.
(訳)「バック・マリガンは右の肩越しに髭の剃ってある方の頬を向けた。「本当にひでえやつじゃねえか?」彼はあけすけに言った。「始末の悪いサクソン人だよ。やつはお前は紳士じゃねえと思っているのさ。まったく、くそいまいましいイギリス人ときたら!金と消化不良とで腹がぱんぱんになってやがるんだ。それもなあ、やつがオックスフォード出だからなんだ。なあ、デダラス、おまえこそ本当にオックスフォードらしい流儀を身につけているぜ。やつにはお前が理解できないんだ。俺がおまえに付けてやった名前が一番だ。ナイフの刃のキンチ」
*まあここは余り問題ないでしょう。
He shaved warily over his chin.
-- He was raving all night about a black panther, Stephen said. Where is his
guncase?
-- A woful lunatic! Mulligan said. Were you in a funk?
-- I was, Stephen said with energy and growing fear. Out here in the dark 60
with a man I don't know raving and moaning to himself about shooting a
black panther. You saved men from drowning. I'm not a hero, however. If
he stays on here I am off.
(訳)「彼はうんざりした様子で顎を剃った。「やつは一晩中黒豹がどうしたのって譫言を言っていたよ。」とスティーブンは言った。「僕の銃のケースは何処だ、なんてね。」「ひでえ気違い野郎だ。」とマリガンは言った。「怖くなかったか?」「怖かったとも」スティーブンは力をこめ恐怖を募らせながら言った。「こんな暗闇の中で、黒豹を撃つとかなんとか一人譫言を言ったり唸ったりしてる知らないやつと一緒だったんだからな。君は溺れそうになってる人を助けた。でも僕は英雄じゃあない。もしあいつがここに居続けるなら、僕が出ていくよ。」
*‘Where is his guncase?’ は翻訳では(丸谷訳、柳瀬訳)いずれも「あいつは銃をどこに入れている」(柳瀬)と、ヘインズが銃を所持していて、スティーブンがその銃の在処を尋ねている、というふうに解釈しているようだ。しかし、まずヘインズが実際に銃を持っていると取るのは不自然であろう。ここは、ヘインズが譫言の中で言ったことと取るべきではないか?(豹を撃とうとして‘Where is my guncase?’ と言ったのだ)つまり直接的には、前の ‘ravening’ の目的語であり、‘ravening where is his guncase.’ と続く考えられる。この際間接話法だから、通常は ‘where his guncase is’ となるが、先にも述べたように Anglo-Irish slang では疑問文の語順になる。クウェスチョンマークが入っているところはやや疑問が残るが、半ば直接話法が混じったような感じで言っているのだと考えられる。いずれにしても、文脈上、現実にヘインズが銃を所持しているのではなく、夢の中で豹を撃とうとして銃を探していると解釈した方が自然であろう。
59行目 ‘funk’ は ‘fear’ の意。 ‘I am not a hero’ というスティーブンの言葉は、文脈上は、僕は英雄じゃないから怖くてしかたない、といったような意味ですが、同時に、「この小説では自分は主人公(Hero)ではない」という小説自体への自己言及と取ることもできる。
Buck Mulligan frowned at the lather on his razorblade. He hopped
down from his perch and began to search his trouser pockets hastily.
-- Scutter! he cried thickly.
(訳)「バック・マリガンは剃刀の刃に付いた石鹸の泡を蹙め面をして見た。彼は立っていた場所から飛び降りて、ズボンのポケットをせわしなく探り始めた。「くそ!」彼はだみ声で叫んだ。」
*‘Scutter!’ というのは問題のある箇所ですが、Anglo-Irish slang で ‘shit’ (くそ)という意味があるので、そのように取っておきます。
He came over to the gunrest and, thrusting a hand into Stephen's
upper pocket, said:
-- Lend us a loan of your noserag to wipe my razor.
(訳)「彼は砲台の所にやってきて、手をスティーブンの上着のポケットに突っ込んで言った。「剃刀を拭くのにお前の鼻拭き布をちょいと拝借」
*‘Lend us’ の ‘us’ となっているのは Anglo-Irish slang。通常は‘me’。
Stephen suffered him to pull out and hold up on show by its corner a 70
dirty crumpled handkerchief. Buck Mulligan wiped the razorblade neatly.
Then, gazing over the handkerchief, he said:
-- The bard's noserag! A new art colour for our Irish poets: snotgreen. You
can almost taste it, can't you?
(訳)「スティーブンは彼が汚れてしわくちゃになったハンカチの角を持って、つまみ上げて見せる任せておいた。バック・マリガンは剃刀の刃をきれいに拭いた。それから、そのハンカチを見つめて言った。「吟遊詩人の鼻拭き布。我らがアイルランド詩人の新しき芸術の色だ。青っ洟の緑色。舐めてみたくなりそうじゃないか?」
*アイルランドを象徴する色は緑だが、ここではアイルランドの詩人たちを揶揄するように、青っ洟の色がアリルランド芸術の色だと言っている。
He mounted to the parapet again and gazed out over Dublin bay, his
fair oakpale hair stirring slightly.
-- God! he said quietly. Isn't the sea what Algy calls it: a great sweet
mother? The snotgreen sea. The scrotumtightening sea. Epi oinopa ponton.
Ah, Dedalus, the Greeks! I must teach you. You must read them in the
original. Thalatta! Thalatta! She is our great sweet mother. Come and 80
look.
(訳)「彼はまた胸壁に上って、ダブリン湾をじっと見渡した。彼の淡い楢のような色の髪がかすかに靡いた。「本当に」と彼は静かに言った。「海ってえのはオールジーが言ったとおりじゃないか?「偉大なる優しき母」っていうやつだ。青っ洟の緑色の海。金玉が縮こまる海。葡萄酒色の海の上で。ああ、デダラス、ギリシャ人だ。お前に教えてやらなくちゃあな。原書で読まなくちゃあいけないよ。海よ!海よ!海こそ我らの偉大なる優しき母だ。来て見ろよ。」
* Algy=Algenon Charles Swinburne(1837-1909) ‘great sweet mother’ は彼の詩 “The Triumph of Time” からの引用。 ‘Epi oinopa ponton’ は “The Odyssey” から。(= upon the wine-dark sea) ‘Thalatta!’= “The sea!” クセノフォンの “Anabasis” より。
‘scrotumtightening sea’ という表現は是非覚えておいて、海に行った時に引用しましょう。教養が滲み出ますよ。(もっとも女性は使えませんが)
Stephen stood up and went over to the parapet. Leaning on it he
looked down on the water and on the mailboat clearing the harbourmouth
of Kingstown.
-- Our mighty mother! Buck Mulligan said.
He turned abruptly his grey searching eyes from the sea to Stephen's
(訳)「スティーブンは立ち上がって胸壁のところに行った。そこに凭れ掛かって彼は水面とキンクズタウンの港の口を通り過ぎて行く郵便船を見下ろした。
「我らが力強き母!」とバック・マリガンが言った。彼はふいに灰色の目を海からスティーブンの顔へ向けた。」
*ここに出てくる「郵便船」の汽笛が先程の ‘whistles’ を鳴らしたのです。
The aunt thinks you killed your mother, he said. That's why she won't let
me have anything to do with you.
-- Someone killed her, Stephen said gloomily. 90
-- You could have knelt down, damn it, Kinch, when your dying mother
asked you, Buck Mulligan said. I'm hyperborean as much as you. But to
think of your mother begging you with her last breath to kneel down and
pray for her. And you refused. There is something sinister in you....
(訳)「「叔母はおまえがおまえのおふくろさんを殺したの思っているんだ。」と彼は言った。「それで、俺がおまえと付き合うのを嫌がるんだ。」「誰かが彼女を殺したんだ。」スティーブンは暗い声で言った。「跪くことくらい出来ただろう。キンチ。危篤のおふくろさんがおまえに頼んだんだから。」とバック・マリガンは言った。「俺もおまえと同様掟に従わぬ異邦人だ。でも、おまえのおふくろさんがいまわの際に跪いて祈ってくれと懇願しているところを思うとな。それなのに、おまえは断った。おまえには何処か邪悪なところが…」
*スティーブンは臨終の床にある母親が跪いて祈ってくれというのを拒否し、今もそのことが心の桎梏となり、この問題はこの日何度も彼の心をよぎり、彼を苦しめている。
‘hyperborean’ はギリシャの伝説の、極北の悲しみも老いも無い常春のユートピアに住むと言われる伝説上の民。ニーチェは「権力への意志」の中で、キリスト教の道徳を超越した「超人」(superman)を表すのにこの言葉を用いた。ここでは「掟に従わぬ異邦人」と訳しておいた。
He broke off and lathered again lightly his farther cheek. A tolerant
smile curled his lips.
-- But a lovely mummer! he murmured to himself. Kinch, the loveliest
mummer of them all!
He shaved evenly and with care, in silence, seriously.
(訳)「彼はふいに話をやめ、向こう側の頬にまた軽く石鹸の泡をぬった。寛容の微笑みが彼の唇を丸くした。「それにしても、素敵などさ回りの無言劇の役者さんだよなあ。」と彼は一人呟いた。「キンチ、素晴らしき旅役者!」彼は黙ってまじめに、むらなく注意深く髭を剃った。」
*‘A tolerant …’ は直訳しておきましたが、映画でいうズームアップの効果が出ています。ジョイスは映画に興味を持ち、1909年にはダブリンで最初の映画館 Volta を作りました。小説の技法にも映画の影響は出ていて、例えば、‘flashback’ の技法などについてはよく言及もされますが、ここにあるようなズームアップの技法などもしばしば用いられています。 ‘mummer’ は「旅回りの無言劇の役者」のこと。「ハムレット」で劇中劇を行う旅役者を思い出させる。
Stephen, an elbow rested on the jagged granite, leaned his palm 100
against his brow and gazed at the fraying edge of his shiny black coatsleeve.
Pain, that was not yet the pain of love, fretted his heart. Silently, in a dream
she had come to him after her death, her wasted body within its loose
brown graveclothes giving off an odour of wax and rosewood, her breath,
that had bent upon him, mute, reproachful, a faint odour of wetted ashes.
Across the threadbare cuffedge he saw the sea hailed as a great sweet
mother by the wellfed voice beside him. The ring of bay and skyline held a
dull green mass of liquid. A bowl of white china had stood beside her
deathbed holding the green sluggish bile which she had torn up from her
rotting liver by fits of loud groaning vomiting. 110
(訳)「スティーブンは、片方の肘をギザギザの大理石の上について、手を額に当てて、すり切れてテカテカに光る黒い上着の袖口をじっと見つめた。苦しみ、未だ愛の苦悩にならざる苦しみが彼の心を苛立たせた。死んだ後、声もなく、夢の中で彼女は彼のもとを訪れた。ゆったりとした経帷子に包まれた彼女のやつれ果てた身体からは蝋と紫檀の匂いがした。そして、無言で責めるように彼の上に屈み込んだ彼女の息からは微かに湿った灰の匂いがした。すり切れた袖口の向こうに、傍らにいる栄養の行き届いた声が偉大なる優しき母と讃えた海が見えた。海と水平線とが描く環はどろどろとした緑色の液体のかたまりを湛えていた。彼女のベッドの傍らには白い陶器の器が置かれ、その中には彼女が腐りかけた肝臓から発作的に大きな呻き声をあげながら、絞り出すように吐いた緑色のどろどろした胆汁が入っていた。」
*‘her wasted body…’ は先にも述べたように、前に ‘with’ を補って付帯状況のように考えると分かりやすい。また ‘her breath,… ,a faint odour …’ は ‘a faint odour’ の前に ‘giving’ が省略されている。同じ構文になっているので、共通部分が省略されている。 ‘the wellfed voice beside him’ とはマリガンの声。 ‘The ring of bay and skyline’ は湾曲した湾と水平線が形作る環のこと。そこに緑色の海水がある訳だが、それが、母親が丸い洗面器に吐いた緑色の胆汁を思い出させている。この部分は後にも何度かスティーブンの記憶に現れるので注意が必要。
Buck Mulligan wiped again his razorblade.
-- Ah, poor dogsbody! he said in a kind voice. I must give you a shirt and a
few noserags. How are the secondhand breeks?
-- They fit well enough, Stephen answered.
Buck Mulligan attacked the hollow beneath his underlip.
-- The mockery of it, he said contentedly. Secondleg they should be. God
knows what poxy bowsy left them off. I have a lovely pair with a hair stripe,
grey. You'll look spiffing in them. I'm not joking, Kinch. You look damn
well when you're dressed.
-- Thanks, Stephen said. I can't wear them if they are grey. 120
-- He can't wear them, Buck Mulligan told his face in the mirror. Etiquette
is etiquette. He kills his mother but he can't wear grey trousers.
He folded his razor neatly and with stroking palps of fingers felt the
smooth skin.
(訳)「バック・マリガンはまた剃刀を拭いた。「ああ、可哀想な走り遣いめ」彼は優しい声で言った。「シャツと鼻拭き布を何枚かやらなくちゃあな。その古手のズボンはどうだい?」「まあぴったりだ。」とスティーブンは答えた。バック・マリガンは唇の下の窪みに取りかかった。「お笑いぐさだぜ」と彼は満足そうに言った。「古足って言った方がいいなあ。何処の梅毒病みの女たらしが脱ぎ捨てたもんだか分かりゃあしない。俺細い縦縞の素敵なのをもってるんだ、灰色のだ。おまえそれをはいたらとても立派に見えるぜ。からかっているんじゃないんだ、キンチ。おまえはきちんとした服を着ればとても立派に見えるんだよ。」「有り難う。」とスティーブンは言った。「でも灰色じゃあはけないよ。」「やつはそれが穿けないだとさ。」マリガンは鏡に映った顔に話しかけた。「礼儀は礼儀というわけだ。やつは自分のおふくろさんを殺しておきながら、灰色のズボンは穿けないだとさ。」彼は剃刀をきちんとたたみ、触覚のように指を動かしながらすべすべの皮膚をなでた。
*‘dogsbody’ は「遣い走り、下働き」といった意味だが、文字通りの犬のイメージも重ね合わされていると思われる。第3挿話に出てくる犬、第15挿話で ‘God’ と ‘dog’ が結びつけられる箇所など、この作品には犬のイメージがしばしば現れる。‘secondhand’ を、ズボンなので ‘secondleg’ としゃれているところは、丸谷訳に倣って、「古手・古足」と訳した。
Stephen turned his gaze from the sea and to the plump face with its
smokeblue mobile eyes.
-- That fellow I was with in the Ship last night, said Buck Mulligan, says
you have g. p. i. He's up in Dottyville with Connolly Norman. General
paralysis of the insane!
(訳)「スティーブンは視線を海からくすんだ青色のキョロキョロ動く目をしたぽっちゃり顔に向けた。「ゆうべシップで一緒だったやつが」とバック・マリガンが言った。「おまえは GPI だって言ってたぜ。やつは「精神病院」でコノリー・ノーマンの下で働いているんだ。麻痺性痴呆(General paralysis of the insane)ってやつだ。」
*‘the Ship’ はダブリンにあった実在のホテル・酒場。後に、マリガンはスティーブンと待ち合わせの約束をするが、すっぽかされる。‘Dottyville’ はダブリンにある ‘the Richimond Lunatic Asylum’ の通称。
He swept the mirror a half circle in the air to flash the tidings abroad 130
in sunlight now radiant on the sea. His curling shaven lips laughed and the
edges of his white glittering teeth. Laughter seized all his strong wellknit
trunk.
-- Look at yourself, he said, you dreadful bard!
(訳)「彼は空中で鏡を半円形に動かして、今や海上で輝く陽の光をちかちか反射させて沖合に合図を送った。円く微笑む髭をそった唇が笑って、白いきらきら輝く歯の端がのぞいた。笑いが彼の屈強でがっしりした全身を捉えた。「自分の顔を見てみるがいい」と彼はいった。「このおそろしい吟遊詩人さんよ。」」
*‘flash the tidings abroad in sunlight now radiant on the sea’ は「鏡を陽の光の中で光らせて(つまり陽の光を反射させて)知らせ(tidings)(ここでは合図と訳しておいた)を、外に(つまり、沖合に)発信した」とでも言った意味。‘his curling shaven lips …’ はand が繋いでいるのは、文法的には、his curling shaven lips と the edges of … だが、上のように意訳した。
Stephen bent forward and peered at the mirror held out to him, cleft
by a crooked crack. Hair on end. As he and others see me. Who chose this
face for me? This dogsbody to rid of vermin. It asks me too.
-- I pinched it out of the skivvy's room, Buck Mulligan said. It does her all
right. The aunt always keeps plainlooking servants for Malachi. Lead him
not into temptation. And her name is Ursula. 140
(訳)「スティーブンは前に屈み込んで彼に差し出された、ひび割れて裂け目が出来た鏡をじっと覗き込んだ。逆立った髪の毛。彼にそして他の連中には僕はこんな風に見えているんだ。いったい誰がこんな顔を選んでくれたんだ?この、ダニを取ってやらなくちゃならない遣い走りの犬っころ。その顔も僕に尋ねている。「女中の部屋からくすねてきたんだ。」とバック・マリガンが言った。「彼女にはそれで十分まにあうのさ。叔母ときたらマラカイのためにいつもぶすな女中を雇うんだ。誘惑に導くことなかれっていう訳さ。おまけに彼女の名前はアーシュラときてる。」
*‘Hair on the end.’ から ‘It asks me, too.’ まではスティーブンの Quoted Monologue。 ‘As he and others see me.’ の he はもちろんマリガン。ここでも ‘dogsbody’ が出てくるが、「遣い走り」という意味と、と犬のイメージが重ね合わされているので先のように訳した。‘do’ は「まにあう、用をなす」。‘plain’ は日本語でいういわゆる「ブス」(失礼)。 ‘Lead him not into temptation.’ は「主の祈り」の “And lead us not into temptation, but deliver us from evil.’ (Matthew 6:13) からの引用。‘Urshula’ は処女を率いて巡礼したと言われる、純潔を象徴する伝説的な女性・聖人。
Laughing again, he brought the mirror away from Stephen's peering
eyes.
-- The rage of Caliban at not seeing his face in a mirror, he said. If Wilde
were only alive to see you!
(訳)「また笑って、彼はその鏡を覗き込むスティーブン目から引き離した。「鏡におのれの顔が見えぬキャリバンの怒り。もしワイルドが生きていておまえを見ていたらなあ。」
*‘the rage of Caliban…’ はアイルランド生まれの小説家 Oscar Wilde(1854-1900)の小説 “The Picture of Dorian Grey” に出てくる有名な次の一節をもじったもの:
The nineteenth century dislike is the rage of Caliban seeing his own face in a glass. The nineteenth century dislike of Romanticism is the rage of Caliban not seeing his own face in a glass.
Caliban はもちろん Shakespeare の “The Tempest” からとったもの。
Drawing back and pointing, Stephen said with bitterness:
-- It is a symbol of Irish art. The cracked lookingglass of a servant.
Buck Mulligan suddenly linked his arm in Stephen's and walked with
him round the tower, his razor and mirror clacking in the pocket where he
had thrust them.
-- It's not fair to tease you like that, Kinch, is it? he said kindly. God knows 150
you have more spirit than any of them.
(訳)「後ずさりし、指さしながらスティーブンは辛辣に言った。「それはアイルランド芸術の象徴だよ。ひび割れた召使いの鏡というのはね。」バック・マリガンは突然スティーブンと腕を組んで、塔の回りをぐるぐると歩き始めた。彼の剃刀と鏡が彼が突っ込んでおいたポケットの中でかたかた鳴った。「おまえをあんな風にからかっちゃあいけないよな、キンチ。」彼は優しく言った。「本当におまえは誰よりも気概のあるやつなんだからな。」
*‘It is a symbol of Irish art. The cracked lookingglass of a servant.’ は有名な箇所。ジョイス自身のアイルランド芸術に対する批判が現れていると考えてもいいだろう。(このホームページの論文1でこの箇所について触れてあります。)
Parried again. He fears the lancet of my art as I fear that of his. The
cold steel pen.
-- Cracked lookingglass of a servant! Tell that to the oxy chap downstairs
and touch him for a guinea. He's stinking with money and thinks you're
not a gentleman. His old fellow made his tin by selling jalap to Zulus or
some bloody swindle or other. God, Kinch, if you and I could only work
together we might do something for the island. Hellenise it.
Cranly's arm. His arm.
(訳)「またはぐらかされてしまった。彼は僕の芸術のランセットをおそれているんだ。僕が彼のを恐れているように。冷たい鋼鉄のペンを。「ひび割れた召使いの鏡か。そいつをあの下にいるオックスフォード野郎に教えて、1ギニーせしめてやれよ。やつは金が腐るほどあるんだ。それにおまえのことを紳士だなんて思っちゃあいないんだからな。やつの親父さんはズールー族にヤラッパを売ったりとか、なにやらひでえいかさまをして金をもうけたんだ。本当によお、俺とおまえが協力したら、この島のために何か出来るかも知れないぜ。ギリシャ化するとかよお。」クランリーの腕。こいつの腕。」
*‘touch … for …’ は「金などをせびる」。 ‘jalap’ はメキシコ産の下剤などに使われる植物の根。 ‘Zulu’ は南アフリカの種族の名前。 ‘Hellenise’ は Matthew Arnold (1822-88) の “Culture and Anarchy” の第4章 ‘Hebraism and Hellenism’ を思い出させる。彼はそこで、この二つを西欧文化に見られる二つの支配的な考え方としている。Hebraism はキリスト教的な禁欲主義であり、Hellenism は Renaissance で目指されたような楽観的な humanism である。彼は英国は過度に Hebraize されているので、完璧にするには幾分 Hellenise する必要があると主張している。よく引用される本なので(岩波文庫から「教養と無秩序」というタイトルで翻訳されている)、ついでに読んでおきましょう。 ‘Cranly’ は ‘A Portrait’ に出てくる友人の名前。カトリックを棄て、アイルランドを出て行こうとするスティーブンを批判する。
-- And to think of your having to beg from these swine. I'm the only one 160
that knows what you are. Why don't you trust me more? What have you up
your nose against me? Is it Haines? If he makes any noise here I'll bring
down Seymour and we'll give him a ragging worse than they gave Clive
Kempthorpe.
(訳)「それにしても、おまえがあんな強欲な豚野郎どもに物乞いしなくちゃならないとはなあ。おまえの本当の真価を知っているのは俺だけなんだぜ。それなのにおまえはどうして俺を信頼してくれないんだ。何で俺に腹を立てているんだ?ヘインズのせいか?もしやつがここで騒ぎ立てたら、シーモアを連れてきてやつらがクライブ・ケンプソープにしたのよりもっとひでえ目に遭わせてやるよ。」
*‘to get it up one’s nose’=to become angry(OED)。
Young shouts of moneyed voices in Clive Kempthorpe's rooms.
Palefaces: they hold their ribs with laughter, one clasping another. O, I
shall expire! Break the news to her gently, Aubrey! I shall die! With slit
ribbons of his shirt whipping the air he hops and hobbles round the table,
with trousers down at heels, chased by Ades of Magdalen with the tailor's
shears. A scared calf's face gilded with marmalade. I don't want to be
debagged! Don't you play the giddy ox with me!
(訳)「クライブ・ケンプソープの部屋に響く若い金持ちどもの叫び声。イギリス人野郎ども。やつらは抱きつきあって腹を抱えて笑う。ああ、死んじまいそうだよう。オーブリー、母さんにやんわりと知らせてやってくれ。死んじまうよう!仕立屋の鋏を持ったモードリン学寮のエイディーズに追いかけられて、彼は、切り刻まれてリボンみたいになったシャツの裾をはためかせながら、ズボンを踵まで引きずり下ろされて、テーブルの回りをよろめきながらはね回る。マーマレードを金色に塗りたくられた、脅えた子牛の顔。ズボンを脱がせないでおくれよう。馬鹿なまねはしないでくれよう。」
*ここは全てスティーブンの Quoted Monologue。マリガンの友人のシーモアたちがクライブ・ケンプソープに悪戯をしているところを想像をしている。 ‘Break the news to her gently’ は当時のアメリカの流行歌 ‘Break the News to Mother’ から。ここでは(自分が死んだという)を‘news’ を母親にショックを与えないようにやんわりと知らせってやってくれという意味。 ‘Magdalen’ は オックスフォード大学の学寮の名前(モードリン学寮)。 ‘debagged’=taken off trousers。

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