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コラム桜狩

印刷用ページを表示する 2013年2月22日更新

コラム

コラムでは、四季折々の宮島を楽しんでいただくための情報を紹介します。

3月20日に、広島地方気象台から桜の開花宣言が出されました。
第1回目のテーマは、「桜狩」です。

 

桜 狩

  桜の季節になると宮島は、遠来の観光客だけでなく近郊からの行楽客で賑わう。

    峯ふもと谷々かけて咲き匂ふ花は宮島みやじまは花

  春の観光のキャッチフレーズになりそうなこの歌が詠まれたのは文政元(1818)年。200年ちかくも前のことである。
  文政期の宮島には大元のほかにも、人々の目を愉しませる花の名所がいくつもあった。『藝藩通志』(1826年)では数百株の桜樹が計画的に植えられた中間谷、鳥居松あたりが最景勝地とされるが、神力寺辺から長浜のあたり、四宮神社や南谷、そして弥山も花を求める人々の散策の地であった。現在の花の名所の原形はそのころまでにできあがっていたと考えてよさそうである。

  長澤ながさわ蘆雪ろせつが厳島を訪れた寛政のおわりごろから、広島城下の文化は隆盛期を迎える。城下の経済を支えた人々は、その豊かな経済力を背景として、文化の担い手としても力を蓄えていた。蘆雪と交流があったことで知られる縄屋の六代目、九左衛門忠昌もその一人である。当時有名であった京の澄月ちょうげつを師と仰ぎ、本格的に和歌を学んだ。

  若いころから石風呂をよく利用していた忠昌は、文政元年、桃花の舞楽の時期に合わせて宮島を訪れた。二週間ほどの滞在中、行く先々で詠んだ歌や句をもとに歌文集を仕立て、「花見の記」とタイトルをつけた。冒頭の歌はその小品におさめられた一首である。

  数は多くないが、城下に伝わった文芸資料のなかに、厳島を詠んだ作品がいくつかある。厳島を創作の対象として捉える城下の人のまなざしは、聖なる面と俗なる面を併せ持つ江戸時代の宮島の姿をかいまみせてくれる。ひっそりと地域に伝わる文芸資料を掘り起こし、読み解いていくことで、いまだ知られていない江戸時代の宮島の姿が立ちあらわれてくるかもしれない。

 西本  寮子

 

 

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